第50話 「秘書課の静かな揺れ――それぞれの“日常”」
秘書課フロアは、今日も整然としていた。
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資料が行き交い、電話が鳴り、キーボードの音だけが一定のリズムで流れていく。
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だがその中で、それぞれの場所に“違う空気”があった。
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第一秘書室。
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島津向葵は、淡々と資料を確認していた。
その隣で、柿沼榮助が黙々と入力作業を進めている。
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「柿沼さん」
向葵が声をかける。
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榮助は手を止める。
「はい」
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向葵はファイルを軽く指で叩く。
「この数値、昨日より修正入ってるの気づきました?」
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榮助は一瞬見直し、すぐに頷く。
「はい。再計算済みのデータですね」
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向葵は少しだけ目を細める。
「ちゃんと見てるんですね」
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榮助は静かに答える。
「確認は基本です」
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その言葉に、向葵は小さく笑う。
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「真面目すぎて逆に怖いですね、それ」
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榮助は少しだけ首を傾ける。
「それは褒め言葉ですか?」
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「半分は」
向葵は即答する。
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少し間を置いて、向葵が続ける。
「でも健二郎取締役のところでその姿勢は助かります」
「第二秘書って、意外と地味に神経使うので」
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榮助は頷く。
「まだ分からないことも多いです」
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向葵はペンを回しながら言う。
「分からないで済ませないのが秘書課です」
「……まぁ、分からないって言えるだけまだマシですけど」
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そのやり取りは、次第に軽い雑談へと変わっていく。
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「柿沼さんって、プライベートどうなんです?」
向葵がふと聞く。
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榮助は一瞬止まる。
「……普通です」
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「普通って一番信用できない答えですね」
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榮助は少しだけ視線を外す。
「特に話すことがないだけです」
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向葵は軽く笑う。
「じゃあ、私と同じですね」
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榮助はその言葉に少しだけ反応する。
「同じ、ですか」
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「ええ」
向葵は資料を閉じる。
「仕事だけで一日終わるタイプ」
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榮助は短く頷く。
「それは……理解できます」
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その頃。
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別室——秘書課サポートデスク。
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菫は美枝子の横で資料を整理していた。
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美枝子はパソコン画面を見ながら言う。
「この案件、来週の役員会に出すわ」
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菫はすぐにメモを取る。
「承知しました。資料構成はどうされますか?」
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美枝子は少しだけ椅子を回す。
「財務と人事のバランスで分けて」
「あと、リスク分析は別紙に」
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菫は即座に頷く。
「では3層構造で組みます」
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美枝子は少し目を上げる。
「早いわね」
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菫は淡々と答える。
「秘書検定1級の範囲ですので」
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美枝子は小さく笑う。
「真面目すぎるのも考えものね」
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その時。
遠くから笑い声が聞こえる。
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向葵と榮助の会話の声だった。
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菫の手が一瞬だけ止まる。
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「……向こう、楽しそうですね」
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菫は立ち上がろうとする。
その瞬間——
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美枝子が軽く首を横に振る。
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「今行く必要はないわ」
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菫は動きを止める。
「でも……」
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美枝子は静かに言う。
「後で内容は聞けるでしょ」
「今は“見る必要のない情報”よ」
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菫は少し迷ったあと、ゆっくりと座り直す。
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「……はい」
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美枝子はその様子を見てから、ふと声を落とす。
「それで」
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菫が顔を上げる。
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「お腹の様子はどう?」
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一瞬だけ、空気が柔らかくなる。
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菫は自分のお腹に視線を落とす。
「まだ実感はそこまで強くはないです」
「でも、少しずつ変化はあります」
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美枝子は小さく頷く。
「無理しないこと」
「これは仕事じゃなくて“身体の案件”だから」
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菫は静かに答える。
「……分かっています」
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その頃。
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双子の妹——燈子と玲子。
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昼休みのメッセージアプリ。
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「姉ちゃん大丈夫かな?」
「三つ子って聞いた時点で相当心配なんだけど」
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玲子が返す。
「でも榮助くんいるし、美枝子さんもいるし」
「意外と環境は最強じゃない?」
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燈子は少しだけ間を置く。
「最強すぎて逆に怖いんだけど」
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玲子は苦笑する。
「まあ、姉ちゃんは昔から頑丈だしね」
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秘書課の中では、
それぞれがそれぞれの“距離”で動いている。
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向葵と榮助は軽い会話の中に仕事を置き、
菫と美枝子は静かな指導と信頼を積み重ね、
その外側で家族が不安と期待を抱いている。
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そして誰もがまだ知らない。
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この“静かな均衡”が、
これから少しずつ形を変えていくことを。
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