第43話 「揺れ始める日常――“普通”の仮面」
朝。
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会社のエントランスは、いつも通り人で溢れていた。
笑い声、挨拶、コーヒーの匂い。
何一つ変わっていないように見える。
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だが——空気だけが少し違う。
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営業サポート課。
榮助が席に着くと、隣の同僚が小声で話しかけてきた。
「なぁ柿沼、ちょっと聞いていい?」
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「はい」
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少し間。
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「経理の柊木さんと、仲いいよな」
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その一言で、空気がわずかに止まる。
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榮助は視線を外さずに答える。
「業務上のやり取りはあります」
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曖昧で、しかし崩れない返答。
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相手はそれ以上踏み込めなかった。
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「そっか……まあ、そうだよな」
とだけ言って離れていく。
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(始まっている)
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榮助は静かにそう理解する。
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経理部会計課。
菫のデスクにも、似たような空気があった。
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「最近さ、柊木さんって残業減ったよね」
「体調かな?」
「でも北条課長、やけに気にしてるよね」
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菫は何も言わない。
ただ資料を整えるだけ。
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(まだ崩れていない)
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(でも、見られている)
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昼休み。
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社内カフェ。
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榮助と菫は、少し離れた席で昼を取っていた。
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直接話さない。
視線も合わせない。
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それでも——同じ空間にいる。
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桜の話題が一瞬だけ頭をよぎる。
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(今夜は何を食べさせようか)
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そんな小さな思考だけが繋がっている。
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午後。
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営業サポート課。
木更津瑛二が榮助に資料を渡す。
「これ、明日の会議資料」
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榮助が受け取る。
「ありがとうございます」
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瑛二は一瞬だけ声を落とす。
「噂は止まらん。だが気にするな」
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榮助は頷く。
「はい」
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瑛二は続ける。
「会社はでかい。だから全部をコントロールはできない」
「でも“守る側”には回れる」
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その言葉に、榮助は少しだけ目を上げる。
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「……守る側」
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瑛二は短く頷く。
「そういうことだ」
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夕方。
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退勤時間。
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会社を出ると、空はすでに薄い橙色。
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その瞬間。
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スマホが震える。
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菫からの短いメッセージ。
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《今日は少し早く帰れそうです》
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榮助はすぐに返信する。
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「分かりました」
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それだけ。
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それだけなのに——心は少しだけ軽くなる。
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夜。
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マンション。
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玄関を開けると、桜の声が飛んでくる。
「おかえりー!」
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榮助は軽く笑う。
「ただいま」
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キッチンには菫。
少しだけ疲れた顔、それでも落ち着いている。
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菫は言う。
「今日は、噂少し聞きました」
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榮助は驚かない。
「……そうですか」
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菫は小さく頷く。
「でも、まだ大丈夫そうです」
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桜は何も知らずに笑っている。
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その笑い声だけが、
この家の“真実”を守っているようだった。
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夜が更ける。
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三人の食卓は、いつもより少し静かだった。
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だが崩れてはいない。
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むしろ——より強く、形を保っていた。
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