第3話 「隣の部屋の“夫婦”――同居という名の距離調整」
朝は、昨日と同じように訪れた。
だが、昨日と同じではなかった。
柿沼榮助(18)は目を開けた瞬間、しばらく天井を見ていた。
静かすぎる部屋。
隣の生活音が、いつもより意識されている。
(……結婚、したんだよな)
まだ現実感が薄い。
だが、戸籍上はもう“家族”だ。
その事実だけが、やけに重く残っている。
⸻
玄関を開けると、ちょうど菫の部屋のドアも開いた。
目が合う。
一瞬、止まる。
菫(29)は軽く髪をまとめ、いつものように朝の支度をしている。
だが、その視線には昨日とは違う“間”があった。
「……おはようございます」
先に菫が言った。
榮助は少しだけ遅れて返す。
「おはようございます」
敬語。
昨日までよりも、なぜか距離がある。
⸻
その後ろから、勢いよく小さな足音。
「おにいちゃーーん!」
柊木桜(5)が飛び出してくる。
そのまま榮助の足に抱きついた。
「ねえねえ!昨日ね!ママがね!」
菫が慌てて制する。
「桜、廊下では走らないの」
「だって嬉しいんだもん!」
桜はまったく悪気がない。
むしろ、昨日より明るい。
榮助はその頭に軽く手を置いた。
「……朝から元気だな」
その言葉に、桜は満面の笑みを浮かべる。
「だって今日から“ほんとの家族”でしょ!」
その一言で、空気が一瞬止まった。
⸻
菫の動きが、ほんのわずか遅れる。
榮助は桜を見たまま、何も言わない。
“ほんとの家族”
それは、昨日決めたはずの形式よりも重い言葉だった。
菫が静かに言う。
「桜、それはまだ……」
言いかけて、止める。
説明しても、この子には難しい。
そう判断したのだろう。
⸻
エレベーターの中。
沈黙が少しだけ続く。
桜だけが、いつも通り揺れている。
「ねえねえ、今日も一緒に帰る?」
榮助は少し考えてから言う。
「時間合えばな」
菫が横で小さくため息をつく。
「無責任な約束しないでください」
榮助は軽く視線を向ける。
「別に約束じゃないです」
そのやり取りは、昨日より少しだけ“夫婦らしくない”。
むしろ、他人に戻ろうとしているような不器用さがあった。
⸻
学校。
教室の空気はいつも通りだった。
だが榮助の中だけ、何かが少しずれている。
友人の声が遠く感じる。
「なあ柿沼、今日さゲーセン行く?」
「……悪い、今日はやめとく」
「珍しいな」
その言葉に、榮助は曖昧に笑った。
理由は言えない。
“結婚したから”なんて、言えるはずがない。
⸻
放課後。
帰宅すると、玄関の前に菫がいた。
スーパーの袋を持っている。
「……偶然ですね」
菫が言う。
榮助は頷く。
「ですね」
それだけの会話。
だが、その“間”に妙な緊張がある。
⸻
「今日の夕飯、どうします?」
菫が歩きながら言う。
「普通でいいです」
「普通って……」
少しだけ困った顔。
榮助は少し考える。
「味噌汁と、何か適当に」
菫は小さく笑う。
「……家族っぽいですね、それ」
その言葉に、榮助は少しだけ視線を外す。
「そうですか」
まだ実感が追いつかない。
⸻
夜。
リビングには、味噌汁の湯気が立っていた。
焼き魚、白いご飯、簡単な副菜。
静かな食卓。
桜は元気に箸を動かしている。
「おいしい!」
その声だけが、空気を明るくする。
菫は少しだけ安心したように笑う。
榮助は黙って食べている。
だが、その静けさは昨日とは違う。
“家族の食卓”という形だけが、そこにある。
⸻
桜が寝たあと。
リビングには再び静けさが戻る。
菫が食器を片付けながら言う。
「……榮助くん」
「はい」
「今日、少し距離ありましたね」
その言葉に、榮助は動きを止める。
「そうですか?」
「はい」
短い沈黙。
菫は少しだけ苦笑する。
「昨日は“結婚した日”だったから、変に意識してたのかもしれません」
榮助はその言葉を聞いて、少しだけ納得するように頷いた。
「……かもしれないですね」
⸻
菫は水を止める。
そして、少しだけ振り返る。
「でも」
静かに続ける。
「このままだと、たぶん続かないです」
その言葉は重かった。
榮助は視線を上げる。
菫は続ける。
「“他人として暮らす夫婦”って、たぶん一番難しいです」
⸻
榮助は少し考える。
そして言った。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
菫は一瞬だけ黙る。
そして、少しだけ笑う。
「……少しずつ、慣れるしかないですね」
その答えは曖昧だった。
でも、現実的だった。
⸻
夜が更ける。
それぞれの部屋に戻る前、玄関で桜が眠そうに出てくる。
「おにいちゃん……」
小さな声。
「また明日もいる?」
榮助は少しだけ間を置いて答える。
「いるよ」
その瞬間、桜は安心したように笑って、ドアの奥へ消えた。
⸻
菫が小さく言う。
「……あの子、すぐ安心するんです」
榮助は答えない。
ただ、玄関のドアを見ていた。
“いるよ”
その言葉だけが、静かに残っていた。
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