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第2話 「結婚届の夜――交際0日婚という選択、そして“家族になる”という契約」


夜は静かだった。


マンションの廊下には、人の気配がない。

照明だけが淡く続き、現実感の薄い空間を作っている。


柿沼榮助(18)は、柊木菫(29)の部屋の前に立っていた。


インターホンは押していない。

ただ、ドアの前で一度だけ息を整える。


(……ほんとに、これでいいのか)


自分でも、まだ整理できていない。


“結婚届を出す”


たったそれだけの行為が、なぜこんなに重いのか分からなかった。


⸻


ドアが開く。


菫は少しだけ驚いた顔をして、それから静かに微笑んだ。


「……来てくれたんですね」


部屋の中は、いつもより落ち着いていた。

桜はすでに寝ているのか、静かだ。


テーブルの上には、一枚の紙が置かれている。


婚姻届。


その横には、ボールペンが二本。


菫はそれを見つめながら言った。


「……本当に、出すんですね」


榮助はすぐに答えない。


視線だけが、紙の上を滑る。


“夫になる”

“妻になる”


現実味のない文字。


だが、もうここまで来ている。


⸻


少し前。


この決断は、衝動ではなかった。


桜が榮助を「家族」と呼んだ日から、

菫の中で何かが静かに変わっていた。


一人で抱えるには重すぎる日常。


そして、榮助という存在の“距離の近さ”。


それは恋愛とは違う。


だが、他人とも違う。


その曖昧さが、逆に答えを作ってしまった。


——一緒にいるなら、形にしたほうがいい。


それが菫の結論だった。


⸻


「榮助くん」


菫が静かに言う。


「ちゃんと確認させてください」


榮助は顔を上げる。


「……本当に、いいんですか?」


菫の声は落ち着いている。


でも、その奥に迷いがあるのが分かる。


榮助は少しだけ沈黙してから言った。


「今さらじゃないですか」


「そうですね……」


菫は小さく笑う。


その笑いは、少しだけ震えていた。


⸻


「でも」


菫が続ける。


「これは“好きだから結婚する”じゃないです」


その言葉に、榮助の目がわずかに動く。


菫はまっすぐ見ていた。


「この子(桜)のためと……私の生活のためと」


一度言葉を切る。


そして、少しだけ息を吸ってから続けた。


「……あなたが、もう“他人じゃない”と思えたからです」


静かだった。


その言葉だけが、部屋に残る。


⸻


榮助はしばらく動かなかった。


“他人じゃない”


その言葉の意味を、ゆっくり探しているようだった。


やがて、小さく言う。


「それって……結婚の理由としては変じゃないですか」


菫は少しだけ目を細める。


「変かもしれませんね」


「でも、もう戻れないです」


その一言は、軽くなかった。


⸻


沈黙。


時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。


そして榮助は、ペンを手に取った。


「……分かりました」


短い言葉。


だが、それで十分だった。


名前を書く音が、やけに現実的に響く。


柿沼榮助。


菫はそれを見て、ゆっくりと目を伏せる。


そして、自分の名前を書く。


柊木菫。


その瞬間、“線”が引かれた。


⸻


「証人は……」


菫が小さく言う。


「呼びますね」


数分後、玄関のチャイムが鳴る。


ドアが開くと、そこには二人の女性が立っていた。


双子。


柊木燈子(ひいらぎ・とうこ)22歳。

柊木玲子(ひいらぎ・れいこ)22歳。


まったく違う雰囲気なのに、どこか似ている。


燈子は柔らかく笑い、

玲子は少しだけ鋭い視線を持っていた。


「本気なんだね、姉さん」


玲子の第一声。


菫は静かに頷く。


「うん」


燈子は榮助を見て、少しだけ目を丸くした。


「……ほんとに18?」


「燈子」


玲子が軽く制する。


⸻


婚姻届に、証人の名前が書かれていく。


その様子を、榮助はただ見ていた。


現実感が薄いのに、確実に進んでいる。


菫が小さく言う。


「これで……もう戻れないですね」


その言葉に、榮助は少しだけ笑った。


「最初から戻るつもりなかったです」


その言葉を聞いて、玲子が少しだけ目を細める。


「……危ないね、その言い方」


⸻


その夜。


すべての手続きが終わり、空気が少しだけ緩む。


燈子と玲子は帰ろうとするが、菫に呼び止められる。


「……今日は泊まっていきますか?」


軽い冗談のような言葉。


だが玲子はすぐに察したように笑った。


「遠慮しとく」


燈子は少しだけ微笑む。


「でも、これから面白くなりそうだね」


⸻


双子が帰ったあと、部屋は一気に静かになる。


テーブルには婚姻届。


それが、現実として残っている。


菫がぽつりと言う。


「……変な感じですね」


榮助は頷く。


「まあ、そうですね」


少しの沈黙。


そして菫が立ち上がる。


「お風呂、先どうぞ」


榮助は一瞬止まる。


「……一緒に入るんですよね」


菫は少しだけ目を逸らす。


「……もう、夫婦ですから」


その言葉は、冗談のようでいて、逃げ道を消す言葉だった。


⸻


風呂場。


湯気が満ちる空間で、現実だけが少し遅れて流れている。


菫と榮助は、同じ空間にいるのに、

まだどこか距離がある。


菫が静かに言う。


「変ですね、ほんと」


榮助は視線を逸らしたまま答える。


「今さらです」


そのやり取りは、妙に落ち着いていた。


⸻


風呂上がり。


リビングには、少し湿った空気と静けさ。


その中で、菫がスマホを取り出す。


「……榮助くん」


「はい」


「内定のこと……ちゃんと伝えました?」


榮助は小さく頷く。


「(株)龍雷神、ですよね」


菫は驚いたように目を上げる。


「え?」


「俺もそこです」


一瞬、空気が止まる。


⸻


菫の表情が変わる。


「……じゃあ」


「はい」


榮助は続ける。


「会社では、他人としてやることになります」


その言葉に、菫はゆっくり頷く。


「秘密、ですね」


榮助は短く言った。


「はい」


その瞬間、“現実の社会”という新しい壁が生まれた。


⸻


夜が深くなる。


同じマンション、隣同士の部屋。


だが今日から、その意味は変わっている。


隣人ではない。


家族でもあり、他人でもある。


その曖昧な関係のまま、二人は別々の部屋に戻る。


そして同じことを、心のどこかで思っていた。


——これはまだ、始まりにすぎない。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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