第1話 「隣人、母子、そして始まる距離――“名前を付けられない関係”が日常に溶けていく朝」
朝は、いつも通りに始まるはずだった。
柿沼榮助(18)の部屋は、無音だった。
目覚ましのアラームが止まったあとも、音のない空気だけが部屋に残っている。
カーテンの隙間から差し込む光が、床の埃を淡く照らしていた。
——一人暮らしの朝は、静かすぎる。
そう思った瞬間、廊下の向こうから音がした。
「いってきます!」
続いて、小さな足音。
そしてもう一度、少し遅れて。
「いってきまーす!」
柊木桜(5歳)の声だった。
そのあとに、落ち着いた女性の声が続く。
「行ってきます。今日も、よろしくお願いしますね」
柊木菫(29)。
隣の部屋の母子。
榮助は、ベッドの上で天井を見たまま、数秒だけ動かなかった。
(……また、いつも通りか)
そう思うのに、胸のどこかが少しだけ落ち着かない。
⸻
玄関を開けると、ちょうど三人がエレベーター前にいた。
菫は髪を軽くまとめ、仕事へ向かう準備が整っている。
だがその横で、桜はランドセル代わりの小さなリュックを揺らしていた。
「おにいちゃん!」
桜が先に気づく。
小さな手が振られる。
榮助は一瞬だけ視線をそらしてから、軽く手を上げた。
「おはよう」
それだけの挨拶。
それだけのはずなのに、桜は嬉しそうに笑った。
「今日ね、えいすけおにいちゃんに見せたいものあるの!」
「あとでな」
自然に出た言葉だった。
菫が少しだけ驚いたように榮助を見る。
「……すみません、朝から騒がしくて」
「別に」
即答だった。
その瞬間、菫は少しだけ困ったように笑う。
この“距離感”がまだ分からない、とでも言うような笑い方だった。
⸻
エレベーターが降りてくるまでの数十秒。
沈黙はあるのに、不思議と重くはなかった。
桜が榮助の服の裾を軽く引く。
「ねえ、おにいちゃん」
「ん?」
「今日も帰ってくる?」
その質問は、あまりに日常的で、あまりに無邪気だった。
榮助は少しだけ言葉に詰まる。
「……まあ、普通に帰るけど」
「やった!」
桜はなぜか嬉しそうに飛び跳ねた。
菫が小さくため息をつく。
「桜、迷惑かけちゃだめよ」
「だって、おにいちゃんやさしいもん!」
その言葉に、榮助は何も返さなかった。
ただ、少しだけ視線を外した。
⸻
その日の昼。
学校はいつも通りだった。
授業、休み時間、友人のどうでもいい会話。
けれど榮助の頭のどこかには、朝の廊下の光景が残っていた。
“帰ってくる?”
ただの確認のはずの言葉。
なのに、なぜか重かった。
⸻
放課後。
帰宅途中、マンション近くのスーパーで買い物をしていると、後ろから声がした。
「榮助くん?」
振り向くと、柊木菫だった。
仕事帰りらしく、少し疲れた顔をしている。
買い物カゴには、桜の好きなものがいくつか入っていた。
「……偶然ですね」
菫は少し驚いたように笑う。
「ほんと、よく会いますね」
その言葉に、榮助は肩をすくめた。
「同じマンションだし」
「それもそうですね」
軽い会話。
なのに、妙に続いてしまう空気。
レジ待ちの列で、菫がぽつりと言った。
「榮助くんって、普段あんまり喋らないタイプですよね」
「そう見えます?」
「はい。でも……桜といる時は違います」
その言葉に、榮助は少しだけ黙る。
「子供相手だからでしょ」
「そうかな」
菫の声は少し柔らかかった。
「桜、あの子……すごく懐いてるんです。あんなに早く人に心開くの、珍しくて」
「……そうなんだ」
他人事のように言いながらも、榮助は少しだけ視線を落とした。
⸻
マンションに戻ると、桜が玄関で待っていた。
「おかえりー!」
走ってくる。
その勢いのまま、榮助の足にぶつかるように抱きつく。
「ちょっ……」
「おにいちゃん、今日ね!見て見て!」
リビングには、色鉛筆で描かれた絵が置かれていた。
三人の絵だった。
真ん中に桜。
右に菫。
そして左に——榮助。
「これ、わたしの家族!」
その言葉に、空気が一瞬止まった。
菫が小さく息を呑む。
榮助は何も言えなかった。
“家族”
まだその言葉を受け取る準備が、自分にはない気がした。
⸻
夜。
桜が寝たあと、菫と榮助はリビングに残っていた。
電気は落とされ、静かな時間。
菫がゆっくり言う。
「桜、ああいうこと言うんです。すぐに誰かを“家族”って呼ぶんです」
少し困ったような声。
「……迷惑ですよね」
榮助はすぐに否定しなかった。
少し間を置いてから言った。
「別に、迷惑じゃないです」
菫は少しだけ目を上げる。
「でも、重いですよね」
その問いに、榮助は窓の外を見た。
夜の光が滲んでいる。
「重いっていうか……」
言葉を探すようにして、続けた。
「まだ、そこまでの実感がないだけです」
菫はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「実感、ですか」
その笑い方は、少し寂しくて、少し安心しているようだった。
⸻
その夜。
玄関で別れる直前、桜の部屋のドアが少しだけ開いた。
「おにいちゃん……」
眠そうな声。
「またあしたね」
その言葉だけ残して、ドアは閉まった。
榮助はその扉をしばらく見ていた。
菫が隣で小さく言う。
「……ほんとに、すぐ懐く子なんです」
榮助は答えなかった。
ただ、その夜だけは少しだけ——
“隣人”という言葉が、遠く感じた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——
ブックマーク & 評価★5 をぜひお願いします!
その一つひとつが、次の章を書き進める力になります。
読者の皆さまの応援が、物語の未来を動かします。
「続きが気になる!」と思った方は、ぜひ、見逃さないようブックマークを!
皆さまの応援がある限り、次の物語はまだまだ紡がれていきます。




