0話「隣の隣で、名前のない距離」
春の終わりと夏のはじまりが混ざるような、曖昧な風が吹く日だった。
柿沼榮助18歳。
高校三年生。成績はそこそこ、部活はやっていない。
特別な夢があるわけでもなく、ただ「一人で暮らす」という環境に、ようやく慣れてきた頃だった。
最初は自由だと思った。
だが、静けさは思った以上に重い。
——その静けさを壊したのが、「隣の家族」だった。
⸻
最初に気づいたのは、玄関の音だった。
「おはようございます!」
明るく、少し慌ただしい声。
続いて小さな足音と、弾むような笑い声。
ドアの覗き穴から見えるのは、いつも同じ光景だった。
若い女性と、小さな女の子。
女性は柊木菫29歳。
柔らかい雰囲気と、少し疲れた目を持つシングルマザー。
だがその笑顔は、どこか“人を安心させる形”をしていた。
娘の名前は柊木桜5歳。
元気いっぱいで、榮助の部屋の前を通るたびに「いってきます!」と手を振る。
最初はそれだけだった。
ただの隣人。
ただの朝の風景。
それだけのはずだった。
⸻
転機は、ある雨の日に訪れた。
夜、コンビニ帰りの榮助は、マンションのエントランスで足を止めた。
傘を忘れた小さな影。
柊木桜だった。
「ママ……おそいの……」
雨に濡れながら、泣くでもなく、ただ不安そうに立っている。
榮助は一瞬迷ってから、傘を差し出した。
「家、すぐそこだろ」
その声に、桜はびくっとしてから、小さく頷いた。
⸻
その日からだった。
少しずつ、距離が変わっていったのは。
・忘れ物を届ける
・ゴミ出しのタイミングが重なる
・桜の体調が悪いとき、インターホンが鳴る
「すみません、少しだけ見ててもらえますか」
柊木菫はいつも申し訳なさそうに頭を下げる。
榮助は最初、戸惑った。
他人の子供を預かるなんて、正直怖かった。
だが桜は、驚くほど人懐っこかった。
「おにいちゃん、ゲームできる?」
「……少しなら」
「やった!」
その笑顔に、何かがほどける感覚があった。
⸻
ある夜。
桜が寝たあと、リビングで菫と二人になった。
電気は少し落とされていて、静かだった。
「本当に……助かってます」
菫は湯気の立つマグカップを両手で包みながら言った。
「シングルで子供育てるの、思ってたよりずっと……大変で」
その言葉は、弱音というより“現実”だった。
榮助はすぐに返せなかった。
ただ、窓の外の夜を見ていた。
「……無理して笑ってるの、分かる時ありますよ」
ぽつりと、そう言ってしまった。
菫の手が一瞬止まる。
「そんな顔、してますか」
「してます」
短い沈黙。
そして、菫は小さく笑った。
「……年下に見抜かれるの、ちょっと悔しいですね」
その笑い方が、妙に綺麗だった。
⸻
気づけば、日常に“隣人以上の時間”が混ざっていた。
・買い物帰りに自然と荷物を持つ
・桜が寝たあと、少しだけ会話が増える
・鍵をかけ忘れた菫の部屋に、榮助が呼ばれることがある
ただ、それでも線は越えなかった。
越えないまま、少しずつ近づいていく距離。
その曖昧さが、逆に危うかった。
⸻
ある夜、桜が熱を出した。
菫はパニック寸前だった。
「どうしよう……病院、夜間……」
震える声。
そのとき榮助は、自然に言った。
「行きます。俺も」
その一言で、夜は動き出した。
タクシーの中、桜は菫の腕の中で眠っている。
榮助は隣で、窓の外を見ていた。
菫が小さく言った。
「……本当に、助かります」
「別に」
「でも……怖くないですか? 他人の子なのに」
榮助は少しだけ間を置いて答えた。
「もう、“他人”って感じ、しないです」
その言葉に、菫は何も返さなかった。
ただ、桜を抱く腕が少しだけ強くなった。
⸻
そして、その夜の帰り道。
マンションの前で、菫は立ち止まった。
雨は止んでいた。
「榮助くん」
初めて、名前をちゃんと呼ばれた気がした。
「……うち、少し寄っていきますか?」
その言葉は、軽く聞こえて重かった。
榮助は一瞬だけ迷い、
そして頷いた。
⸻
扉が閉まる音がしたとき、
その日から何かが変わることを、
二人とも、まだ言葉にできなかった。
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