第39話 「報告――会社という現実の扉」
翌朝。
空気はいつも通り冷静だった。
だが、榮助と菫の中だけは違う。
“確定した日常”の重みが、静かに残っている。
榮助はいつも通りスーツを着る。
ネクタイを締める手は、少しだけゆっくりだった。
菫もまた、体調に気を配りながら準備をしていた。
ただ今日は――無理はしないと決めている。
桜はいつも通り元気だ。
「いってらっしゃい!」
その声が、家の空気を少しだけ明るくする。
榮助は桜の頭を軽く撫でる。
「行ってきます」
そして菫を見る。
一瞬の沈黙。
菫が小さく頷く。
「……行ってらっしゃい」
その声は、昨日よりも少しだけ違って聞こえた。
会社。
営業サポート課。
榮助はデスクに着く前に、木更津瑛二のデスクへ向かった。
瑛二は書類を見ながら顔を上げる。
「どうした、柿沼」
榮助は一礼する。
「報告があります」
そして少し間を置き、続ける。
「それと……お願いがあります」
一瞬、空気が変わる。
瑛二はペンを置く。
「言え」
榮助は静かに言った。
「結婚しています」
「相手は経理部会計課の柊木菫さんです」
さらに一拍置いて続ける。
「このことは、社内では公表せず“秘密扱い”としていただきたいです」
「業務上の支障が出ないように、これまで通り“他人としての関係”で働きます」
瑛二の眉がわずかに動く。
「……秘密にしたい、ということか」
榮助は頷く。
「はい」
そしてもう一つ。
榮助は続ける。
「そして、妊娠が確認されました」
「こちらも、同様に社内では公表せずにお願いしたいです」
一瞬だけ、周囲の空気が止まる。
瑛二はゆっくり頷いた。
「そういうことか」
数秒の沈黙のあと、瑛二は言う。
「まずは状況を整理する」
「業務負担は調整できる」
「お前は仕事を続けていい。ただし無理はするな」
榮助は頭を下げる。
「ありがとうございます」
瑛二は少しだけ柔らかい声になる。
「お前、こういうの隠さないタイプだと思ってたよ」
榮助は短く答える。
「隠す理由がありませんでした」
瑛二は軽く笑う。
「それでいい」
同時刻。
経理部会計課。
菫は北条恵子の前に立っていた。
「報告があります」
そして一拍置いて続ける。
「それとお願いがあります」
恵子はすぐに書類から目を離す。
「何?」
菫は落ち着いた声で言う。
「結婚しています」
「相手は営業サポート課の柿沼榮助さんです」
さらに続ける。
「この件は社内では公表せず、秘密として扱っていただきたいです」
「業務に支障が出ないよう、これまで通り“他人として”働きます」
恵子の目が一瞬だけ止まる。
「……あの新人の?」
菫は頷く。
「はい」
続けて言う。
「そして、妊娠していることが分かりました」
「こちらも同様に秘密扱いでお願いします」
恵子は数秒黙る。
そして静かに息を吐いた。
「……分かったわ」
「業務は調整する」
「あなたは身体を優先しなさい」
想像よりも穏やかな反応だった。
昼休み。
会社全体の空気は、まだ何も変わっていないようで、しかし一部だけが確実に動き始めていた。
榮助と菫。
それぞれ別の場所で、同じ事実と“秘密”を抱えながら仕事に戻る。
だがその日から、二人の“普通の一日”は少しずつ形を変え始めていく。
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