第38話 「陽性二本線――静かに確定する現実」
夕方。
会社を出た榮助は、いつも通りの動きで桜を迎えに行った。
小さな手を引いて、帰り道を歩く。
桜は今日も元気で、何も知らないまま笑っている。
「ママー、ただいまーって言う!」
そんな桜の声に、榮助は軽く頷く。
「そうですね」
その頃――。
菫の部屋。
誰もいない静かなトイレ。
手に握られた一本の検査薬。
(……まだ、落ち着いて)
菫はゆっくりと呼吸を整えながら、結果が出るまでの時間を待っていた。
だが、その時間はとても長く感じる。
インターホンの音が鳴る。
ピンポーン。
すぐに続く声。
「ママー?」
「ママーいる?」
桜の声。
そして榮助の声。
菫は一瞬、動けなくなる。
(今、見てる途中で……)
だが、すぐに気持ちを切り替える。
「はーい」
玄関へ向かい、扉を開ける。
そこには、いつも通りの榮助と桜が立っていた。
榮助は一瞬だけ菫を見る。
その視線だけで、何かを察していることは分かった。
だが、何も聞かない。
気付いている。
それでも、言わない。
それが榮助だった。
「おかえりなさい」
菫はいつも通りの声を作る。
桜は嬉しそうに駆け寄った。
「ママー!」
菫は桜を優しく抱きしめる。
その夜。
桜が眠ったあと。
部屋は静寂に包まれていた。
菫は検査薬を握ったまま、隣の榮助の部屋の前に立つ。
コンコン。
「榮助さん」
すぐに扉が開く。
榮助はすでに何かを理解しているような表情をしていた。
菫は短く言う。
「……出ました」
数秒の沈黙。
そして、菫は続ける。
「陽性です」
その言葉は静かだった。
だが、確かだった。
榮助は一度だけ目を閉じる。
そして、ゆっくりと目を開いた。
「そう、ですか」
感情を大きく表に出すことはない。
それでも、その言葉の中には確かな責任と覚悟があった。
菫は少しだけ息を吐く。
「明日、会社には報告します」
「経理部の北条恵子さんに」
榮助も静かに頷く。
「俺も営業サポート課の木更津課長に報告します」
少しだけ間が空く。
菫が小さく呟いた。
「……本当に、始まったんですね」
榮助は短く答える。
「はい」
それ以上は何も言わない。
ただ、同じ空間の中に立っていた。
翌朝。
榮助は自室でスマートフォンを開く。
《柿沼家グループLINE》
短く文章を打つ。
『陽性反応でした』
数秒後。
既読が一気についた。
健二郎:
『了解。櫻井課長には俺から話す』
美枝子:
『無理はしないように。身体が第一よ』
智恵子:
『菫さんにもちゃんと休ませなさいよ』
それぞれの反応は早く、そして現実的だった。
同じ頃。
菫も自宅でスマートフォンを開く。
《燈子・玲子グループLINE》
『妊娠しました』
すぐに返信が返ってくる。
燈子:
『え、ほんと!? 姉ちゃん!』
玲子:
『えっ……榮助さんの?』
菫は少しだけ笑う。
そして短く返した。
『そう』
その一言で――。
日常は完全に次の段階へと移っていった。
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