第29話 「予告の夜――覚悟だけが先に動く日」
朝。
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いつものキッチン。
いつもの弁当。
でも、空気だけが少し違っていた。
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桜はまだ眠そうに椅子に座っている。
菫は弁当箱を閉じながら、ちらりと榮助を見る。
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「……今日も定時ですか?」
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「はい」
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短い返事。
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そのあと、少し間が空く。
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榮助は弁当を受け取る。
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「菫さん」
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「はい」
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いつもより、少しだけ静かな声。
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榮助はまっすぐ見る。
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「今日の夜」
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菫の手が止まる。
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「そちら(自宅)に行きます」
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一瞬、空気が固まる。
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桜はまだ気づいていない。
パンをもぐもぐしている。
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榮助は続ける。
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「覚悟して下さいね」
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その言葉は軽くない。
冗談でもない。
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ただの宣言だった。
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菫はすぐに返せない。
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目だけが少し揺れる。
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(……覚悟)
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何の覚悟なのか。
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分かっているようで、分かりきれない。
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やがて、菫は小さく息を吐く。
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「……分かりました」
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短い返事。
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でも拒否ではない。
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桜が首をかしげる。
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「なにが?」
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「なんでもないよ」
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菫がすぐに笑ってごまかす。
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榮助は弁当を持ち上げる。
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「行ってきます」
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「行ってらっしゃい」
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いつものキス。
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でも今日は少しだけ長い。
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そのあと、榮助は一瞬だけ桜を見る。
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「また夜な」
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「うん!」
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会社へ向かう背中。
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菫はその姿を見送る。
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(……夜)
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その一言が、頭の中で何度も反響する。
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龍雷本社。
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午前。
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榮助はいつも通り席に着く。
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だが、どこか周囲の空気が違って見える。
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木更津が横目で見る。
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「今日、なんか顔違うな」
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「そうですか」
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「……まあいい」
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それ以上は聞かない。
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昼。
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弁当を開ける。
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(今日の夜)
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その言葉が頭にある。
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藤崎が覗く。
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「今日も弁当か」
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「はい」
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「ほんと安定してるよな、お前」
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軽い笑い。
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でも榮助は少しだけ違う反応だった。
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「……まあ」
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夕方。
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16:30。
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「お先に失礼します」
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いつも通りの退勤。
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でも足は少し速い。
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マンション。
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エントランス。
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鍵を開ける前に、一度だけ止まる。
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(……覚悟して下さいね)
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自分で言った言葉。
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ドアを開ける。
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その夜。
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空気はいつもより静かだった。
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そして、まだ何も始まっていないのに——
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確かに“始まる直前”の匂いだけがしていた。
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