第15話 「繰り返す朝――“慣れ”と“境界線”のあいだで」
朝は、前日とほとんど同じ形で始まった。
それが少しだけ、違和感になっていく。
柿沼榮助(18)が目を覚ますと、隣の部屋はすでに慌ただしかった。
「桜、靴下!」「早く準備して!」
柊木菫(29)の声が、朝の空気を切り裂くように響く。
桜(5)は眠そうなまま、それでも元気に返事をしている。
「はーい!」
⸻
榮助はゆっくり起き上がる。
クローゼットを開けると、昨日と同じスーツ。
それを着る動作にも、少しだけ“慣れ”が混ざっていた。
(もう、これが普通なのか)
そう思った瞬間、少しだけ感覚が鈍る。
⸻
玄関。
菫はすでに桜の準備を終えかけている。
髪はまとめられ、仕事モードの顔。
忙しさの中でも、どこか整っている。
榮助は靴を履きながら言う。
「行ってきます」
菫が顔を上げる。
「はい、気をつけて」
その一言は昨日と同じ。
だが今日は、少しだけ間が近い。
⸻
榮助は一歩近づく。
菫の頬に手を添える。
一瞬だけ、空気が止まる。
そして——
唇が触れる。
短く、しかし迷いのないキス。
菫は一瞬だけ目を閉じるが、すぐに静かに受け入れる。
「……いってらっしゃい」
その声は少しだけ柔らかかった。
⸻
桜が後ろで跳ねる。
「おにいちゃん、がんばってねー!」
その無邪気さが、朝の空気を戻す。
榮助は軽く頷いて家を出る。
⸻
同じ朝。
菫はそのまま桜を保育園へ送り出す準備に追われる。
「水筒!」「ハンカチ!」
慌ただしい動きの中でも、生活は止まらない。
桜は玄関で振り返る。
「ママ、いってきまーす!」
菫は笑顔で答える。
「いってらっしゃい」
⸻
ドアが閉まる。
静けさが一瞬だけ訪れる。
⸻
その静けさの中で、菫は小さく息を吐く。
(今日も始まる)
そう思いながら、仕事の準備を整えていく。
⸻
一方その頃。
榮助は真新しいスーツのまま、街を歩いていた。
まだ完全には馴染まない社会人の服。
それでも、足は止まらない。
(これが日常になるのか)
そう思いながら。
⸻
そして同じ街のどこかで。
菫もまた“仕事の顔”に戻っていく。
家では妻のように。
会社では社員として。
そして誰にも見せない場所で、母として。
⸻
朝は繰り返される。
キスも、挨拶も、忙しさも。
だがその中で少しずつだけ、何かが変わっていく。
名前のつけられない関係だけが、静かに積み重なっていた。
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