第11話 「入社前夜――“家族”と“会社”がつながる瞬間」
夜明け前の空は、まだ薄く青かった。
柿沼榮助(18)は、机の上に並べた書類を見ながら、何度も確認していた。
明日は入社式。
高校を卒業したばかりの現実が、そのまま社会へと接続される日。
(ここから、全部変わる)
そう思うのに、まだ実感は薄い。
⸻
朝。
隣の部屋はすでに慌ただしかった。
ガチャガチャと音がして、柊木菫(29)が桜(5)の準備をしている声が聞こえる。
「靴下は?」「水筒は?」
桜の小さな声が返る。
「ママー、これどこー?」
朝のいつもの光景。
だが今日は少しだけ違う空気が混ざっていた。
⸻
榮助が玄関を開けると、ちょうど菫も出てきた。
一瞬、目が合う。
菫は軽く頭を下げる。
「おはようございます」
そして、少しだけ丁寧な声で続けた。
「明日の入社式、頑張ってくださいね」
その言葉には、妻というよりも“距離を保った応援”の温度があった。
榮助は短く答える。
「はい」
菫は桜の手を引いて歩き出す。
「行ってきます」
桜が振り返る。
「おにいちゃん、がんばってねー!」
その声が、廊下に残った。
⸻
昼前。
榮助は自宅で、明日の準備をしていた。
スーツ、書類、靴。
静かな部屋。
そこに突然、インターホンが鳴る。
⸻
「よお」
玄関に立っていたのは、父親だった。
柿沼健二郎。
落ち着いた雰囲気の中に、少しだけ強さのある男。
手には紙袋と箱。
「入社前祝いだ」
そう言って渡されたのは、高級そうな腕時計だった。
榮助は少し驚く。
「こんなの……」
健二郎は軽く笑う。
「社会人になるんだろ」
⸻
さらにもう一つ。
「これもな」
差し出されたのは、スーツケースに入った一着のスーツ。
「俺が新入社員の時に着てたやつだ。試してみろ」
榮助は少し迷いながらも袖を通す。
鏡の前。
——ぴったりだった。
思っていた以上に自然に身体に馴染む。
健二郎は腕を組みながら言う。
「……悪くないな」
⸻
少しの沈黙のあと、健二郎がふと思い出したように言う。
「母さん(美枝子)から聞いたんだけどな」
榮助が顔を上げる。
「お前の奥さん、隣人なんだって?」
その言葉に、空気が一瞬止まる。
榮助は短く答える。
「はい」
健二郎は少しだけ興味深そうに笑う。
「顔見てみたかったな」
⸻
そして、さらりと言った。
「あ、言い忘れてたけどな」
「俺も《株式会社・龍雷神》にいる」
榮助の動きが止まる。
健二郎は続ける。
「取締役や」
静かに言った。
その一言で、部屋の空気が変わる。
⸻
「……え?」
榮助は初めて動揺を見せる。
健二郎は淡々と続ける。
「お前の配属とかも一応見てる立場だな」
冗談のようで、冗談ではない声。
⸻
少しして、健二郎が聞く。
「で、奥さんの名前は?」
榮助は少し間を置いて答える。
「菫さんです」
健二郎の目がわずかに動く。
「……柊木さん?」
榮助は頷く。
「はい」
⸻
一瞬の沈黙。
健二郎は小さく息を吐く。
「なるほどな……」
そして、少しだけ笑った。
「まあ、うちの会社も狭いな」
⸻
榮助はその場で固まったまま、父を見ている。
家族、会社、隣人、結婚。
それらが全部、一本の線で繋がり始めている。
だが、その線の意味だけがまだ分からない。
⸻
健二郎は立ち上がる。
「明日、ちゃんとやれよ」
それだけ言って、玄関へ向かう。
⸻
去り際に一言。
「そのスーツ、似合ってるぞ」
ドアが閉まる。
⸻
静けさが戻る。
榮助は鏡の中の自分を見たまま、しばらく動かなかった。
(全部、繋がってる)
そう思った瞬間、少しだけ息が詰まった。
⸻
明日は、入社式。
そして、まだ誰も知らないまま。
“家族”と“会社”が、同じ場所で交差し始めようとしていた。
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