第10話 「卒業の余白――“働き始める前”と、“日常に残る家族”」
卒業式が終わった翌朝。
柿沼榮助(18)は、久しぶりにゆっくりと目を覚ました。
制服はもうない。
学校へ行く理由もない。
それなのに、生活のリズムだけはまだ学生のままだった。
(……変な感じだな)
窓の外は、いつもと同じ朝なのに、自分だけが少し浮いている。
⸻
リビングから音がする。
ガチャガチャと慌ただしい足音。
柊木菫(29)が、桜(5)の保育園準備に追われていた。
「桜、靴下は?」「お弁当はこれでいいかな……」
小さな声で独り言のように言いながら、手は止まらない。
その横で桜は、まだ眠そうに目をこすっている。
「ママ〜……まだねむい……」
「ダメよ、遅れるから」
朝の“戦場”のような空気。
それを榮助は、少し離れた場所から見ていた。
⸻
「……菫さん」
榮助が声をかける。
菫は振り向く余裕もないまま答える。
「はい?」
榮助は少しだけ間を置いてから言った。
「今日は、全部俺に任せてください」
その言葉に、菫の手が止まる。
「え?」
榮助は続ける。
「桜の準備も、送りも」
「仕事も、行ってください」
静かな声だった。
だが迷いはない。
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菫は少しだけ困ったように笑う。
「でも……そんな急に」
「大丈夫です」
榮助は短く言う。
その一言に、なぜか説得力があった。
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桜がぱっと顔を上げる。
「おにいちゃんといっしょなの!?」
榮助は頷く。
「そうだ」
桜は一気に目を輝かせる。
「やったー!」
その反応を見て、菫は少しだけ息を吐いた。
(……この人なら、大丈夫かもしれない)
そんな感覚があった。
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数分後。
菫は玄関で立っていた。
仕事用の鞄を持ち、少しだけ榮助を見る。
「……お願いします」
その言葉には、少しだけ迷いが混ざっていた。
榮助は頷く。
「はい」
⸻
桜が小さく手を振る。
「ママ、いってらっしゃーい!」
菫は少しだけ笑って返す。
「いってきます」
扉が閉まる。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わる。
⸻
静かになったリビング。
桜はすぐに榮助の袖を掴む。
「ねえ、おにいちゃん、なにする?」
榮助は少し考える。
「朝ごはん」
「やった!」
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簡単な朝食。
トーストと牛乳。
桜はパンを頬張りながら笑う。
「おにいちゃんのごはん、おいしい!」
「普通だろ」
「ちがうもん!」
そのやり取りは、少しだけ朝を柔らかくする。
⸻
食後。
桜はリビングで遊び始める。
榮助はその横で、少しだけ片付けをしている。
ふと、桜が言う。
「ねえ、おにいちゃん」
「ん?」
「ママね、いつもがんばってるよね」
その言葉に、榮助の手が止まる。
桜は続ける。
「だからね、ママおやすみできるの、うれしい」
小さな声だった。
だが、真っ直ぐだった。
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榮助は少しだけ黙る。
そして短く言う。
「……そうだな」
その一言だけで、十分だった。
⸻
昼。
榮助は桜と一緒に近所の公園へ行く。
ブランコに乗る桜。
その横に立つ榮助。
「おにいちゃんも乗る?」
「いや、いい」
「えー!」
風が少しだけ強い。
でも、その時間は不思議と穏やかだった。
⸻
夕方。
帰宅すると、部屋は静かだった。
菫はいない。
桜は少しだけ眠そうにソファに座る。
「ママまだかな……」
榮助はスマホを見ずに答える。
「もう少しだろ」
その声は、少しだけ優しかった。
⸻
夜。
菫が帰ってくる。
玄関のドアが開くと、桜が飛びつく。
「ママー!」
菫は少し驚いた顔をして、それから笑う。
「ただいま」
その視線が榮助に向く。
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「……どうでしたか」
榮助は短く答える。
「問題ないです」
その言葉に、菫は少しだけ安心したように息を吐く。
「そうですか……」
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リビングには、少しだけ“家庭の匂い”が残っている。
菫はそれを感じながら、小さく言う。
「なんだか……不思議ですね」
榮助は少しだけ振り向く。
「何がですか」
菫は微笑む。
「あなたがいると、少し安心します」
その言葉に、榮助は一瞬だけ言葉を失う。
⸻
桜が眠ったあと。
静かなリビング。
菫はぽつりと言う。
「今日……助かりました」
榮助は軽く首を振る。
「別に」
菫は少しだけ笑う。
「それ、あなたの口癖ですね」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。
⸻
夜は更けていく。
隣の部屋と同じ空間のように近くて、でも別々の時間。
その境界は、少しずつ曖昧になっていく。
そして誰もまだ、その“先”を言葉にできないまま──日常だけが静かに続いていた。
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