第8話 最初の入院患者は、もふもふでした
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古い家畜小屋で迎えた朝は、これまでにないほど清々しいものだった。
「ぷるるっ、じゅうじゅう……」
プルは朝から元気に、家畜小屋の石壁や床下に染み付いた古い瘴気を浄化し続けている。
俺はまず、この小屋の安全管理に着手した。怪我をした魔物を保護するなら、最低限、逃走防止と隔離場所がいる。病気かどうかわからない個体を、いきなり自分たちの居住空間に入れるわけにはいかないからだ。
俺は往診バッグから取り出した金槌と釘を使い、小屋の中に残されていた古い柵板を組み直した。頑丈な石壁を背負わせるようにして、小屋の奥に簡易の隔離用ケージと防護柵を作り上げる。
「よし、これなら急に暴れ出してもすぐには壊されないな」
こういう地味な施設管理こそ、前世で飼育員兼獣医師として叩き込まれた仕事だった。
その横では、リコが藁の上で丸くなり、ブランケットもタオルも外したまま眠っていた。銀色の耳が、寝息に合わせて小さく揺れている。
やがて目を覚ましたリコは、俺が組み直している柵板をじっと見つめた。
「……何をしてるのだ?」
「隔離用のケージを作ってる。怪我をした魔物を保護するなら、俺たちの寝る場所と分けないと危ない」
「じゃあ、私も手伝うのだ」
当然のように立ち上がろうとしたリコを、俺は慌てて手で制した。
「待て。君はまだ患者だ。傷もふさがっていないし、瘴気の影響も残っている」
「でも、ここにいるだけなのは嫌なのだ」
リコは唇を尖らせ、銀色の耳をぴんと立てた。
「泊まる場所をもらうなら、私も何かする。そうじゃないと、落ち着かないのだ」
その言葉に、俺は少し考えた。
「わかった。力仕事はなし。プルの届く範囲から出ない。息が苦しくなったらすぐ言う。それを守れるなら、耳を貸してくれ」
「耳?」
「俺には聞こえない音が、君には聞こえるかもしれない。外で何か異変があったら教えてほしい」
リコは一瞬だけ目を丸くした。それから、得意げに尻尾を揺らした。
「それならできる。銀狼族の耳を、甘く見ないでほしいのだ」
俺たちは小屋を整えるための資材を求めて、森の境界付近へと向かった。
「ワタル、あっち! ……プルの届く範囲からギリギリ聞こえるのだ」
リコが立ち止まり、銀色の耳を鋭くそばだてた。彼女は決して俺とプルの側を離れようとはしなかった。自分の体が瘴気に弱いことを、身をもって知っているからだ。
リコに導かれ、茂みの奥で見つけたのは、鉄の罠に足を挟まれた犬に似た幼獣だった。
「罠にかかってるな……」
確認すると、罠にはギルドの登録印がない。正規の猟師ではなく、密猟者が放置した粗悪な代物だ。
「クガァッ! グルルルルッ!」
子犬ほどのサイズに似合わないほど、全身をこわばらせて威嚇している。目は血走り、何かにひどく怯え、痛みだけでは説明できないほど激しく暴れている。
俺は動物行動学に基づき、視線を逸らしてゆっくりと膝をついた。
「リコ、無理ならいい。少しだけ近くにいてくれ。君の匂いがあれば、この子も落ち着くかもしれない」
俺は『絶対診察眼』を起動し、幼獣の状態を詳細に読み取った。
『対象:ウィンドウルフの幼獣』
『状態:右後肢裂傷・圧挫傷・骨折疑い・重度の瘴気汚染』
圧挫傷――単なる傷ではない。強く押し潰され、組織そのものが深部まで傷んでいる状態だ。
罠のバネを押さえ、挟まれた足に余計な力がかからないよう慎重に金具を開く。幼獣を抱きかかえて、急いで浄化された「家畜小屋」へと連れ帰った。
家畜小屋に入り、プルの浄化された空気に触れた瞬間だった。さっきまで俺の腕の中で狂ったように暴れていた幼獣が、急に力を抜いた。血走っていた瞳の赤みが引き、荒かった呼吸がみるみるうちに穏やかになっていく。
「……あれ?」
俺を噛もうとしていた牙が収まり、幼獣は力なく俺の腕に顔を埋めた。
「……リコ、この子、急に大人しくなったな。痛みの限界か? それとも……」
「さっきまでの怖さは何だったの? まるで、別の生き物みたいなのだ」
リコが不思議そうに呟く。
俺は、さっき診察した時の『重度の瘴気汚染』という項目を思い出した。
空気が変わって落ち着いた。そう考えたくなる。だが、一例だけで決めつけるのは危険だ。今は、記録して観察する。それが診察の基本だった。
俺は生理食塩水で傷口を洗い、泥と黒い滲出液を流した。プルがにじみ出る瘴気を吸い取り、リコが幼獣の頭側にそっと座って声をかける。
骨折の有無はまだ断定できない。だから無理に動かさず、添え木で右後肢を固定し、隔離ケージの柔らかい藁の上に寝かせた。幼獣は、俺の手に鼻を擦り付けてきた。
俺はすぐに、村長ゴランの屋敷へ説明に向かった。
「村長、説明しなければならないことがあります。先ほど森でケガをしたウィンドウルフの幼獣を保護して、今入院させています」
「先生、魔物を増やさないのが条件だったはずだぞ!」
俺は医療者としてのロジックを伝えた。
「これは傷病個体の緊急入院です。放置すれば死ぬだけでなく、そこから再び瘴気病が広がる可能性もあります。隔離して治療する方が、村にとっても安全です」
「でも、あんなにくたびれた家畜小屋で隔離なんてできないだろう?」
「いや、きちんと設備を整えました。これから、確認してもらってもよいですか?」
「あの家畜小屋のあたりは瘴気が強いから、気が進まんが……」
「窓際や床下にプルを置いて、空気の流れを作っています。少なくとも、小屋の中は村の通りより清浄です」
「あの、スライムか……。わかった。見させてくれ」
ゴランを連れて古い家畜小屋へ戻った。整備された隔離ケージを見て、ゴランは唸った。
「……屁理屈に聞こえるが、筋は通っている。あくまで完治までだぞ、ワタル先生。それにしても、あのウィンドウルフ、狂暴なはずなのに、おとなしいな。子犬のようでかわいくも感じる」
「そうなんですよね。ここに連れてきたら傷の痛みからかおとなしくなって。ただ、今後傷が治ったら元に戻るかもしれないので、注意します」
「うむ。わしも時折、様子を見に来る。約束を違えるなよ、ワタル先生」
「はい。わかりました」
ゴランが去った後、往診バッグから、プロ仕様のブラシを取り出した。消耗品ではない道具なら、まだいくつか出せるらしい。
毛玉を無理に引っ張らず、根元を指で押さえ、皮膚の赤みを確認しながら瘴気で固まった毛を丁寧に外していく。
「いつまでもウィンドウルフの幼獣じゃ呼びにくいな」
俺がそう呟くと、幼獣は尻尾を小さく振った。
「じゃあ……コロでいいか」
「安直すぎるのだ」
リコがぼそりと言った。だが、その尻尾は少し揺れていた。
清潔になった毛並みに、コロは気持ちよさそうに目を細めた。その様子を、リコは壁際からじーっと、羨ましそうに見つめていた。銀色の尻尾が、期待を隠しきれずに激しく揺れている。
俺は満足げに、新しいカルテを書き記した。
【患者個別カルテ:コロ】
種名:ウィンドウルフ。
状態:右後肢裂傷・圧挫傷・骨折疑い。
経過:浄化環境下にて攻撃性が低下。環境要因との関連を要観察。食欲確認待ち。
【施設管理カルテ:古い家畜小屋(仮)】
収容状況:隔離区域にウィンドウルフの幼獣、愛称コロを緊急入院。
特記事項:村長より「一時入院」として承認を獲得。公衆衛生上の管理を継続。
【患者個別カルテ・同居者メモ:リコ】
特記事項:ブラッシングに強い関心あり。本人の尊厳に配慮しつつ、要対応。
「……ねえ、ワタル」
コロのケアが終わった後、リコが頬を赤く染め、自分の尻尾を抱え込みながら言った。
「さっきのブラッシング……私にも、少しだけなら、してくれてもいいのだ……」
その夜、古い家畜小屋は少しだけ狭くなり、その分だけ、少し賑やかになった。
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