第75話 翼の影から鈴の音がします
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早朝。診療棟でルシェルドの治療の準備をしていた。噴霧器に高濃度浄化液を入れ、往診バッグにしまう。
「ガルドさんの噴霧器ができたおかげで、樽を持っていく必要がなくなった。レオン君に少しかっこつけて自分で運ぶと言ったけど、あの手押し車、結構重かったから助かったな」
「ワタルが無理していたのは知っていた。でも、ワタルは私とエーリスさんの前でかっこつけるから黙っていたのだ」
リコが淡々と言った。
「そうか、何かキャスパーさんみたいだな」
「男なんて、みんなそうやって見栄を張りたがるのだ」
自分では気づかないことも多い。俺は注意しようと思った。
「ワタル先生。よろしいですか」
オルフェンとノクシアが診療棟に入ってきた。
「オルフェンさん、ノクシアさん。おはようございます。どうしましたか?」
「昨日、ロッカさんとウィンドウルフの区画について話しましたよね。今日は、その候補地をノクシアと一緒に見たいと思いまして。保護区の北側外縁からルシェルド様の療養地までの範囲なので、一緒に行ってもいいですか?」
「はい。ルシェルドの治療も続いていますし、候補地もその周辺です。一緒に見てもらえると助かります」
「わかりました。よろしくお願いします」
オルフェンは頭を下げた。
***
保護区の広場で除染準備をしているトーマに伝えた。
「トーマさん。おはようございます。今日は、オルフェンさんとノクシアさんもルシェルドの治療に一緒に来てもらうから、その後に俺たちと一緒に除染作業に合流します。その間、人数が少なくなりますが、よろしくお願いします」
「ワタル先生。わかりました」
トーマが鎌やひしゃくなどの道具を並べながら言った。
***
ルシェルド療養地に、俺、リコ、エーリス、オルフェン、ノクシアの5人で向かった。
「ルシェルド様とお会いするのは久しぶりです。その後いかがですか」
「ええ。古傷は徐々に良くなってきていると思いますが、その奥の瘴気反応が薄くなりません。オルフェンさんの言うとおり、水源の浄化を進めないことには治療効果が出ないんだと思います」
オルフェンは頷いた。
「竜種は世界中でもほとんど個体数がなく、観察記録も少ないのです。私も100年ほど前、前の魔王に命じられてルシェルド様を観察に来ましたが、結局ほとんど何もわからないまま戻りました」
「そうすると、今回の治療記録はかなり貴重になりますね」
「ええ。人間がここまで継続して竜を治療した記録は、私も知りません」
オルフェンがそのように言うと、ノクシアも頷いた。
「魔王軍も各大陸の竜の取り扱いに困っていました。正面から戦うと戦力的に厳しい。なので、どんな情報でも知りたがると思います」
「そうすると、ますます保護区が狙われる恐れがあるのだ」
リコが耳を畳んだ。オルフェンとノクシアは顔を見合わせて笑った。
「すぐに狙われる心配まではないと思いますよ。魔王軍はみなプライドが高い。自分たちが扱えない竜を、人間が治療しているなんて話を表立って認めたがりませんから」
「なら、良かった。なるべく、魔王軍には二度と来てほしくないのだ」
「そうですね……」
ノクシアは呟いて森の奥を見つめた。
***
ルシェルド療養地につくと、ルシェルドは、いつもよりゆっくり左翼を広げた。ただ、傷口はいつもより高い場所。翼を開く角度も少しおかしい。
「ルシェルド、今日もこの霧でお前の古傷を洗浄する」
いつもより高い位置の古傷に俺は噴霧器を向けてピストンを押した。かろうじて古傷に届き、高濃度浄化液で洗浄することができた。
ルシェルドはその間も俺と目を合わせない。どこからか、微かにチリチリと鳴る音がする。
「……ルシェルド。もしかしたら、その翼の陰に何かいるのか?」
『知らぬ。気づいたらいた』
ルシェルドの声が頭の中に響く。俺たちは翼の裏に回った。
ルシェルドの翼の陰。そこに倒れた枯れ木が一本あり、その低い枝に小さな猿たちがしがみついている。成獣が2頭、幼獣が3頭。
成獣は幼獣を腹に抱え、枝と仲間の尾を握って離さない。恐怖で動けないのか、尾の鈴毛が震えてチリチリ鳴っている。
「あれは、鈴尾猿ですね。手足と尾の力が強く、暴れると危ない」
オルフェンが呟いた。
『人間よ。我が動くことでこれらが傷つかぬように、連れていくがよい』
「どのように保護できるか。今日は手押し車もない……」
俺はノクシアに振り返った。
「ノクシアさん、あの子たちを縛らずに、刺激だけ減らせますか?」
「はい。拘束ではなく、隠れ場所を作ります。『影包み』」
ノクシアの足元から影が伸びた。影はベルテールモンキーたちの手足を縛らず、倒木と枝の周りに薄く広がっていく。
木のうろの奥に入ったように、外の光と音だけが少し遠ざかった。
チリチリと鳴っていた尾の鈴毛が、少しずつ静かになった。成獣は幼獣を腹に抱えたまま、まだ枝を離さない。
ノクシアは幼獣へ目を向けた。
「大丈夫。隠れていていいですよ」
それを見てオルフェンが静かに言った。
「無理に剥がす必要はありません。群れを分けず、自分で降りられる道を作りましょう」
「わかりました。俺は急いで保護区から手押し車と搬送箱を持ってきます。その間、オルフェンさん、よろしくお願いします」
俺は少し落ち着いたベルテールモンキーたちを横目で見ながら、急いで保護区に戻った。
***
「お待たせしました」
戻ってくると、ルシェルドは体を丸めて目を閉じていた。その背後でリコ、エーリス、オルフェン、ノクシアがベルテールモンキーを見守っている。
「ワタル。どのように保護するのだ? エーリスさんの『魔力鎮静』か?」
俺は首を振った。『絶対診察眼』を起動する。
「あの子たちは、今すぐ重い治療が必要な状態ではない。今必要なのは、薬よりも、安全に移動させることだ」
「えっ?」
エーリスが驚いて振り向いた。
「瘴気反応はごく軽い。森の瘴気から逃れて、ルシェルドの陰まで来たんだろう。外傷も浅い。空腹、脱水、疲労はある。でも、ここで無理に『魔力鎮静』をかけるより、群れを分けず、安心できる暗さのまま誘導した方がいい」
俺はノクシアに尋ねた。
「ノクシアさん。あの子たちの下に搬送箱を置こうと思います。あそこに誘導することはできますか」
「はい。暗がりの続く道を作ります」
俺はリコと一緒に、ベルテールモンキーたちがしがみつく枝の下へ搬送箱を置き、蓋を開けた。
「ノクシアさん、お願いします」
「はい。影誘い」
枯れ木の上の成獣2頭が周りをきょろきょろ見渡した。そして、下を見てゆっくりと枯れ木から降りていき、搬送箱の中に入った。
「よし、リコ、蓋を閉じるぞ」
「わかったのだ」
俺はリコと搬送箱の蓋を閉じた。そして、手押し車に乗せた。
「今後も、ルシェルドのもとに森の瘴気から逃げてきた魔物がいるかもしれないのだ。手押し車と搬送箱は、いつも準備しておいた方がいいと思うのだ」
「そうだな。準備はしておいた方がいいかもしれない。ルシェルド。この子たちを連れて行くぞ」
ルシェルドは何も答えず、大きな瞳を一度開けて俺を見た後、静かに瞼を閉じた。
***
「リコ、エーリスさん。俺はオルフェンさんとノクシアさんとこの子たちの保護を進めます。森の除染に加われないことをトーマさんに伝えてもらってもいいですか」
「わかりましたわ。もし、鎮静させなければならないときにはわたくしを呼びに来てくださいね」
「エーリスさん、ありがとうございます」
俺は、リコとエーリスと別れ、保護区に戻った。
俺は手押し車に載せた搬送箱を見下ろした。中では、ベルテールモンキーたちの尾の鈴毛が、かすかにチリ、チリ、と鳴っている。
それは怯えの音だった。けれど、さっき聞いた時より、少しだけ小さくなっていた。
「まずは、安心して休める場所を作ろう」
治療というより、保護。処置というより、暮らす場所の準備。
また、保護区に新しい仕事が増えた。
【施設管理カルテ】
新規保護個体:ルシェルド療養地付近にて、鈴尾猿の小群れを保護。成獣2頭、幼獣3頭。軽度脱水、疲労、掌部および足裏の擦過傷を確認。瘴気反応は軽度。群れ分離によるパニックを避けるため、同一搬送箱で搬送し、その後も同一区画で低刺激管理を行う。
搬送・低刺激管理:ノクシアの『影包み』により、対象群の視界および聴覚刺激を軽減。拘束ではなく、木のうろに近い暗がりを作ることで、尾の鈴毛の震えおよび警戒反応の低下を確認。その後、『影誘い』により搬送箱内へ自発的に移動させ、群れを分離せず搬送した。
サファリ造成管理:ウィンドウルフ用「草原区画」の候補地確認を予定していたが、ルシェルド療養地付近での鈴尾猿保護対応を優先したため、午前中の視察は延期。防護柵、走行導線、未除染区域との境界について、ロッカ、オルフェン、ノクシアと改めて確認する。
特記事項:ルシェルド療養地周辺に、森の瘴気から逃れた小型魔物が避難する可能性を確認。今後の往診時には、手押し車および搬送箱を常備する。
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