第64話 小さな家族にも夜を守る灯りが必要です
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朝露がシダの葉を濡らし、澄んだ空気の漂う早朝。
俺は、リコ、エーリス、ノクシア、サラ、そして生態観察責任者であるオルフェンを連れてルシェルド療養地に向かっていた。
「ワタル先生。ルシェルド様が言うには、魔物が保護区の方に流れてきているということですか?」
オルフェンは歩きながら俺に尋ねた。
「はい。昨日聞いたのですが、瘴気を避けてこちらに向かってきているようです。なので、オルフェンさんにも現場を確認してもらいたくて」
「わかりました。久しぶりにルシェルド様にお会いできるのも楽しみです」
***
ルシェルドのもとに到着すると、いつものように静かに身を横たえていた。
俺の姿を見て立ち上がったが、今日はなぜか、左の翼をやけに慎重に、ゆっくりと少しだけ開いた。
俺は『絶対診察眼』を起動し、ルシェルドの左翼根部に残る古傷を診た。傷の奥深く、神経付近に絡みつく黒い瘴気反応は依然として残っている。
俺は高濃度浄化液を、ひしゃくで古傷へとゆっくりとかけた。
高濃度浄化液が沁み渡るのに合わせて、エーリスが『組織安定化』の魔法を重ね、傷口の炎症を抑えつつ創部を優しく固定していく。
「よし、これで今日の治療は終わりだ」
片付けを始めると、ルシェルドの声が頭に響いた。
『我の背後に、小さき風の眷属らがいる。我の影に身を寄せているが、我の翼一つ、尾の一振りで傷つけかねぬ。……お前たちが連れていけ』
「えっ? 小さき風の眷属?」
見上げるとルシェルドは金色に輝く大きな瞳で俺を見ていた。
ルシェルドの言葉に驚いた俺たちは、慎重にその巨大な身体の背後へ回り込んだ。
ルシェルドが促すように、背後を覆っていた巨大な翼を静かに、さらにゆっくりと避ける。朝露に濡れたシダが生い茂る木陰に、灰白色の美しいウィンドウルフの母狼が身を低くしていた。その目は、おびえきっている。
母狼のお腹の下には、手のひらに乗るほど小さな子狼が二匹、鼻先だけを必死に突き出して、寒さと恐怖で小刻みに震えている。
「ウィンドウルフの母子です。通常なら、幼獣を連れた母狼が単独でここまで来ることはありません」
オルフェンは、母狼の痩せた腹と、濡れた足先を見て眉を寄せた。
「群れからはぐれたのでしょう。あるいは、群れそのものが瘴気に追われて散ったのかもしれません」
自分たちに視線が向けられたことを察した母狼は、残された最後の力を振り絞るようにして、我が子をかばうように立ちはだかる。鋭い牙を剥いて低く唸り声を上げるが、その四肢は激しく震えており、前進して襲いかかってくる気配はない。
リコが、母狼から目を離さずに小さく鼻を鳴らした。
「怒ってる匂いじゃない。怖がってるのだ。子どもを取られると思って、必死に守ろうとしてる……」
リコの尻尾が、低く揺れた。
「でも、こっちに飛びかかる感じじゃないのだ。逃げ道を探してる」
サラも、母狼の耳と前足をじっと見ていた。
「……母狼は、こっちを襲おうとしていません。子どもを隠す場所を探して、必死に守っているだけです」
ノクシアがサラに語り掛けた。
「よく見ています、サラさん。耳は伏せて警戒していますが、前足の重心は後ろに残っています。攻撃姿勢ではなく、子どもを自分の後ろに隠すための防衛姿勢です。こちらが敵意を向けなければ、暴れることはありません」
「とりあえず、母子を傷つけずに保護しないと」
俺の言葉を聞き、オルフェンが低い声で助言した。
「母狼を先に拘束してはいけません。子を奪われると判断すれば、残った力で噛みに来ます。母子は離さず、子狼が母狼の視界から消えないように運んでください」
「分かりました。ノクシアさん、影は閉じ込める形ではなく、光と音を弱めるだけでお願いします。エーリスさんは浅い鎮静を。リコは母狼の動きを見ていてくれ」
ノクシアは『影の壁』を薄く展開し、周囲の光と音の刺激を極限まで遮断して、母狼のパニックを和らげた。
「母狼も少し落ち着いたみたい。耳が少し垂れた。エーリスさん、お願い」
「はい。『魔力鎮静』」
エーリスがリコの合図を受けて、最小限の魔力で穏やかな『魔力鎮静』を施した。母子の動きがゆっくりになった。
俺は『絶対診察眼』で母子を診た。
母狼は、軽度の瘴気反応、脱水、警戒疲労。鼻腔炎による嗅覚低下はあるが、脳内への重篤な炎症の兆候はない。
子狼はいずれも軽度の低体温症と、薄い瘴気反応を示していた。急いで温めれば、重症化は避けられそうだ。
「よし、重症化する前に温めよう。刺激を与えないように、厚手の毛布で包んで運ぶぞ」
俺はそう言って、往診バッグから毛布を取り出した。子狼たちを包み、母狼には視界を少し遮るように毛布をかける。母子を離さないようにして、俺たちは手押し車で診療棟へ急いだ。
***
診療棟に戻ると、俺たちは母子を隔離ケージへ移した。
隣のケージでは、トゲマルが丸くなって眠っていた。昨日より呼吸は落ち着き、棘のような毛も少し寝ている。
俺たちはトゲマルを刺激しないよう、少し離れたケージにウィンドウルフの母子を収容した。
ケージの隅に乾いた藁を厚く敷き、搬送に使った毛布を子狼たちにかける。
「子狼が母狼の視界から消えないようにしてください」
オルフェンが低い声で言った。
俺は頷き、母狼の鼻先から見える位置で、二匹の子狼をそっと包んだ。
それを見ていた母狼は徐々に牙を引き、ぐったりと横たわって深く息を吐き出した。
「瘴気反応は薄い。低体温さえ改善できれば、動きは戻ってくると思う」
俺は母子を見下ろして言った。
「そうですね。一晩様子を見て、少しずつドッグランで慣らしていくといいでしょうね」
オルフェンが頷いた。
***
母子の処置を終え、俺は、リコ、サラ、ノクシアと新棟のダイニングで今後の管理上の課題について話し合っていた。
「今後、直接保護区に魔物が来ることも想定される。でも、レオン君がリハビリ入院中なのもあって、夜の見回りをサラさんとノクシアさんの人力パトロールだけに頼り続けるのは、二人の負担が大きすぎる。何か良い仕組みはないかな……」
ノクシアが窓の外を見て言った。
「夜間の見回りで大きな松明を使うと、その煙と揺れる光で、神経が著しく警戒疲労している母狼が過敏に反応して暴れる恐れがあります。松明に代わる、刺激の少ない灯りが必要です」
リコがノクシアの言葉に頷いた。
「確かに。ノクシアさんの言うとおり、暗闇の中で急に近づく足音や人間の気配も、今の母狼には大きなストレスになるよね」
「なるほど。松明のように揺れず、煙も立たず、静かに足元だけを照らす標識のような灯りがあれば、おびえる母狼を刺激せずに静かな夜間巡回ができる。……ガルドさんに一度、相談してみよう」
ノクシアは手を叩いた。
「ああ、あの蓄魔機構ですね。私も実験に協力し続けていますから、だいぶ進んでいると思います」
「そうなんですね。ガルドさんは診療棟の扉金具を直しに来てくれているので、呼んできましょう」
俺は席を立って、ガルドを呼びに行った。
***
「おう、ワタル。どうした?」
「前から蓄魔機構の実験を進めてもらっていましたが、その後どうなっていますか」
俺の言葉を聞いてガルドはニヤリと笑った。
「実は、ちょうど見せようと思っていたものがあるんだ。ちょっと待ってろ」
ガルドはそう言って診療棟を出ると、すぐに小さな器具を抱えて戻ってきた。
「ダイニングで、みんなにも見せてもらえますか」
「おう。ちょうど、そのつもりだった」
ガルドはテーブルの上に、蓄魔式の小型灯具を置いた。
「これだ。ライの治療が終わった後から、ノクシアさんの安定した微弱雷魔法を流してもらっていただろう? おかげで魔力瓶と共鳴回路の調整がようやく上手くいってな。大きなものを動かすにはまだ足りねえが、夜に小さく光らせるくらいなら、いける」
カーテンを閉めて部屋を暗くする。小型灯具はほんのりと青く光っている。
「お役に立ててよかったです。同じ強さで魔力を流す実験を重ねた甲斐がありましたね」
ノクシアが感慨深げに言った。
ガルドが作ったのは、熱も不快な音も発さず、ただ蛍のように仄かに青く光るだけの小さな標識灯の試作品だ。
「試作品はいくつくらい作りましたか?」
俺がガルドに尋ねると、ガルドは大きな声で笑った。
「欲張りな奴だな。まだ、同じものを3個作っただけだ。しばらく試してから量産するよ」
「ありがとうございます。それだけでも助かります」
怯える母狼がいるあたりにこれを配置することによって、サラとノクシアが暗闇の中で大きな松明を掲げたり、不自然な足音を立てたりする必要がなくなり、おびえる母狼を刺激しない低刺激の夜間巡回が可能になる。
「今日のところは、隔離ケージのあたりに置いて様子をみましょう。それで問題がなければ、ガルドさん。量産をお願いしてもいいですか」
「任せろ。でも、ノクシアさんの魔法を蓄えるから、量を増やすとノクシアさんの負担が大きくなるぞ。毎日、魔法を注ぎ込まないといけないわけだし」
「そうですね。ノクシアさんにばかり負担をかけられないし……」
ノクシアが俺を見つめた。
「ワタル先生。私は保護区のためにできることはしたいと思っています。実験でやった感覚だと、毎日10個ほどに魔法を注ぎ込んでも負担はないと思います」
「ノクシアさん。では、それでお願いできますか?」
「はい。任せてください」
サラが不安そうに言った。
「ノクシアさんが無理をして一緒に回れなくなると不安ですので、無理しないでくださいね」
ノクシアはサラを見て微笑んだ。
「サラさん。大丈夫ですよ。無理をしない範囲でやりますから」
「良かった。兄さんが戻ってくるまで、警備に穴を開けたくないですから」
サラは胸をなでおろした。
***
夜。診療棟の隔離ケージの中、たっぷりの藁と温かい毛布に包まれた子狼たちは、小さな寝息を立ててぐっすりと眠っていた。
母狼は、余計な刺激のない暗闇と小さく灯る青い標識灯の光に安心したように目を細め、胸元で眠る子狼たちを優しく抱きしめ、この保護区に来て初めて、安らかな寝息を立てて目を閉じた。
隔離ケージを照らす静かな標識灯を見つめながら、俺は呟いた。
「大きな光じゃない。でも、あの子たちにとっては、この小さな灯りこそが、安心して眠れる夜をつなぐ、何より確かな目印なんだ」
医療、工学、そしてノクシアの魔法が、今夜も逃げてきたおびえた命を優しく包み込んでいた。
【施設管理カルテ】
患者経過(ウィンドウルフ母子):母狼1頭、幼獣2頭をルシェルド療養地付近で保護。オルフェンの生態所見により、通常の群れ行動から外れた単独避難個体と判断。母狼に軽度から中等度の瘴気反応、脱水、警戒疲労を確認。幼獣2頭に低体温傾向と軽度瘴気反応あり。厚手の毛布・乾藁による保温、ノクシアの影魔法による刺激制限、エーリスの浅鎮静、清浄水補給を実施。
患者経過:棘毛テン(スパイクマーテン)……隔離ケージ内で安静。呼吸状態は安定し、接触過敏は緩和傾向。創部洗浄および鎮静軟膏塗布による炎症管理を継続。
設備開発:蓄魔機構について、ノクシアの微弱雷魔法による安定入力試験の実績に基づき、低出力・低刺激型の夜間標識灯を試作。診療棟外周および巡回導線での使用を検討。
安全管理:ウィンドウルフ母子の受け入れに伴い、夜間見守り体制を強化。レオン療養中は、サラの臨時警備補助とノクシアの観察指導を継続し、新設された標識灯を用いた低刺激の夜間巡回を試験運用する。
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