第63話 森が騒がしい朝は村長にも報告します
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澄んだ空気の中、俺はリコ、エーリスと一緒に、ルシェルドの療養地へ向かった。
高濃度浄化液を、左翼根部の古傷へとゆっくりとかける。表面の炎症は落ち着いていた。だが、俺が『絶対診察眼』で見ると、傷の奥にはまだ黒い瘴気反応がへばりついている。
ルシェルドは何も言わず、治療を受けていた。
「じゃあ、ルシェルド。今日の治療は終わりだ。明日また来るぞ」
俺は高濃度浄化液を入れていた樽を手押し車に乗せて、保護区に引き返そうとした。その時だった。
『森の奥が騒がしい。瘴気に追われた小さきものらが、こちらへ流れている』
ルシェルドの声が頭の中に響いた。振り返るとルシェルドは静かに金色に輝く瞳を北の森へと向けていた。
「小さきものらがこちらに流れている。……昨日のトゲマルだけじゃない、ということか?」
『あれは、一つの気配ではない。森は、息苦しい場所から逃げる』
そう言って、話を打ち切るようにルシェルドは体を丸めた。
「ねえ、ワタル。ルシェルドは魔物がこちらに向かってきていると言っているの?」
リコが俺に尋ねた。
「詳しくはわからない。だが、瘴気を避けて清浄な空気を求めることは想像できる」
「そうすると、森を拓くことで患者も増えていくことが考えられますわね」
エーリスが森の方を見ながら言った。
「そうですね。何があっても対応できるように準備を進めましょう」
俺たちは保護区への帰途についた。俺は森の奥深く、見えない場所でおびえている新たな「患者たち」の気配を、胸の奥で予感していた。
***
診療棟に戻り、隔離ケージを覗くとトゲマルは暗所のケージの奥で丸くなっていた。
昨日より呼吸は落ち着き、棘のように逆立っていた毛も少しだけ寝て柔らかさを取り戻している。
「まだ触ると痛いな。今日は洗浄を短めにして、軟膏を塗り直そう」
俺は手早く清浄水で患部を洗い、リュシアが調合してくれた消炎効果の高い鎮静軟膏を薄く塗り直す。
トゲマルは小さく「きゅぅ」と鼻を鳴らして安心したように目を閉じた。
***
診療棟の外へ出ると、ドッグランには穏やかな日常が広がっていた。
コロがお腹を見せて転がり、リーフは日だまりで気持ちよさそうに目を細め、ハニーは木陰で蜂蜜水を舐めている。
柵の外では、ミーナとライザが並んで見学していた。
「コロ、またお腹見せてる」
ミーナが笑うと、ライザも背伸びをして柵の向こうを覗き込んだ。
「あの子、ほんとうに狼なの?」
「たぶん、狼。でも、すぐ転がるの」
二人の笑い声に、コロは得意げに尻尾を振った。
少し離れた場所では、ライが土の上を小さく跳ねていた。オルフェンが羊皮紙に歩幅と呼吸数を書き込み、ノクシアが耳の伏せ方と放電の兆候を見ている。
「物音への反応は昨日より緩やかです。放電の兆候もありません」
ライザが目を丸くした。
「雷、出さないんだ」
ノクシアは静かに頷いた。
「怖がらずに跳ねられている、ということです」
ライは処置室にいた昨日より、ずっと軽い足取りで跳ねていた。
(ここでは、みんな静かに息ができている。安心していられる場所が、ここにはある。けれど、森の奥では、まだ息ができなくて苦しんでいる子たちがいる。あそこへ続く道を拓くことは、今も苦しむ患者を救うための『医療導線』なんだ)
俺に気づいたミーナが近づいてきた。
「ワタル先生。こんにちは。今日はライザちゃんと一緒に見学しているんだ」
「ミーナちゃん。一人で来たの?」
「うん。コロを見に行きたいっておじいちゃんに言ったら、許してくれたから見に来たの」
村長のゴランがミーナをここへ送り出してくれている。それだけで、この場所が村に少しずつ信じられ始めているのだと分かった。
だからこそ、その信頼を裏切るわけにはいかない。保護区の外で何が起きているのか、ゴランにはきちんと伝えなければならない。
***
俺はルミナ村のゴランの屋敷を訪ねた。ゴランはアルノと書面を見ながら話し合っていた。
「ワタル先生。今日はどうした?」
「はい。先ほどミーナちゃんが保護区に来ていました。一人で来ることを認めていただき、ありがとうございます」
「わしは、保護区を信頼しておる。アルノもいいと言ったしな」
ミーナの父のアルノが頷いた。
「もっとも、保護区が危ない場所だと思っておれば、そんなことはせん。ところで、最近、竜はおとなしくしているか?」
「はい。特に暴れたりすることもせず、落ち着いています。ただ、治療がなかなか進みません」
「どういうことじゃ?」
ゴランは俺に尋ねた。
「ルシェルドは氷泉竜。ただ傷口を清浄にしても、根本的な解決にはつながらないのです。瘴気が満ちたことにより、森の奥の湖が汚染されています。それが、ルシェルドの古傷の回復を妨げていると考えられます」
「なるほど、竜の傷だけを洗っても足りんということか」
「はい。湖そのものを診る必要があります。それに、湖水を保護区へ引ければ、保護区が村の井戸に頼る量も減らせます」
ゴランは俺の話を聞き、表情を明るくした。
「村の水にも関わる話じゃな。保護区の職員が増えて、水の使用量も増えておる。村の井戸のこともあって、使用量を抑えてもらっていたからな。少し申し訳なく思っていたところじゃ。それが解決できるなら、わしも嬉しい」
アルノは黙って聞いていたが、「湖水を引けるなら、村の井戸の記録とも照らし合わせる必要があります」と言った。
「保護区の使用量が減れば、村の井戸にも余裕が出ます。ただ、引水を始めるなら、どれだけ使い、どれだけ戻すのかを記録しないといけません」
「そうですね。気を付けます。ただ、湖は森の奥ですから、そこまで除染するのにも時間がかかります。また、土地を除染するのと水を除染するのは違います。どれくらいの時間がかかるかは今のところわかりません」
俺は下を向いた。解決策はあっても、すぐには実現できない。しかも、新たな問題も発生している。
「加えて問題があります。森の奥から、瘴気に追われた魔物がこちらへ流れてきているようです。昨日レオン君が怪我をしたのもそのためです。ルシェルドからも、森が騒がしくなっていると警告を受けました」
ゴランは深く腕組みをした後、厳格な顔で立ち上がった。
「なるほど、湖の開拓は村の生存にも関わる大事業じゃな。だが、森がそこまで危険になっているなら、机の上だけで線を引く場所は決められん。ワタル先生、今から村外れの森の入口をこの目で見に行くぞ。いいな、アルノ」
「はい」
俺は驚いた。
「今からですか」
「ああ、ギルドの協力も必要だから、モルガナにも話をしよう」
俺たちはギルドに向かい、モルガナに事情を説明した。モルガナはキャスパーに俺たちに同行するように指示した。
俺は保護区にも連絡を送り、湖畔方面の除染を任せているトーマに立ち会いを依頼した。あわせて、サラとノクシアにも現地確認に加わってもらう。森を見るなら、この二人の目が必要だと思ったからだ。
***
現地確認には、俺、ゴラン、アルノ、案内役のキャスパー、トーマ、サラ、ノクシアが加わった。全員がガルド製のマスクを着け、村外れの森の入り口へ向かう。
普段と変わらないように見える静かな森を前に、サラが不意に足を止め、周囲を見渡した。
「……鳥が鳴いていません。いつもなら、この時間は低い枝に小鳥たちがいます。でも、今はみんな、ずっと奥の方に下がっています。……それに、足元を見てください。この小さな足跡、こっちへ向かっています。逃げてきた跡です。何かを追いかけた跡じゃありません」
その言葉を聞き、ノクシアが微笑んだ。
「よく見ています。小型の魔物が森の浅い場所まで逃げてきた時、鳥は警戒して先に居場所を変えます。サラさんの言う通り、この森の入り口はすでに、追われた魔物たちの逃げ道になっています」
「このまま除染を進めると、作業員が逃げてきた魔物と鉢合わせる。レオンのような事故が、また起こるかもしれないな」
トーマが森を見て呟いた。
俺は視線を地面の低い場所へと落とし、『絶対診察眼』を起動した。
地面の低い場所に、薄い瘴気反応が筋のように残っていた。奥からこちらへ、引きずられるように伸びている。
「本当に、森から魔物たちが流れてきている。ルシェルドの警告は間違いがなかった」
考え込んでいたゴランが口を開いた。
「わしは保護区を信頼しておる。だが、森は違う。まだ先生たちが診ておらぬ場所じゃ。そこへ村の者を自由に入れるわけにはいかん。村人の自由な立ち入りは止めよう。怪我人が出てからでは遅い」
そう言った後、ゴランは俺の方を振り返った。
「村人の自由な立ち入りは止めるが、保護区の作業まで止めるわけではない。ワタル先生たちは、決めた導線と時間に限って入るようにせよ。細かい線引きは、図面を作ってからだ」
同行していたアルノが、持っていた板紙に素早く線を書き込んだ。
「村長。ひとまず、森の入口から保護区側の導線までを仮制限区域として記録します。村人の自由な立ち入りは止め、保護区の作業班と治療班、それからギルドが認めた警備員だけを入れる形でよろしいですか」
「それでよい。入る者と戻った者の名も控えよ」
「はい。井戸の記録と同じように、日ごとの出入りを残します」
そして、ゴランはキャスパーに指示した。
「キャスパー! すぐにギルドへ戻り、モルガナに伝えろ。森の浅い区域に立入制限をかける。冒険者たちにも周知させよ」
「はい」
キャスパーは返事をしてギルドに戻った。
「ワタル先生、これでよいか?」
「はい。保護区だけで決める話ではありません。村と一緒に、線を引きます」
俺はそう答えながら、ルシェルドの言葉を思い出していた。
森は、息苦しい場所から逃げる。ならば俺たちは、逃げてきた命と、そこに暮らす人たちの間に、間違えない線を引かなければならない。
保護区に戻ろうとしたその瞬間、サラがピタッと足を止め、北の森の奥の深い藪を凝視した。
「……風が、変です。葉がこれだけ揺れているのに、森の匂いがこっちに来ていません。何か、大きなものが風を遮っているみたいで……」
ノクシアも微かに表情を変え、視線をサラと同じ方向へ向けた。
「ワタル先生。奥に、誰かが潜んでいます。……息を殺して、必死に身を寄せ合っている、小さな家族が」
俺は『絶対診察眼』で、薄暗い森の奥を透かすように見た。
姿までは、はっきりしない。だが、何重にも重なる木々の影のさらに奥で、小さな魔力の光が三つ、身を寄せ合うように震えていた。
あの子たちも、逃げてきた患者なのだろうか。
ここから先は、いま決めたばかりの立入制限区域だった。準備もなく踏み込めば、助ける側まで危うくなる。
俺たちは、その気配だけを森の奥に残したまま、一度、引き返すしかなかった。
【施設管理カルテ】
患者経過:棘毛テン(スパイクマーテン)……瘴気性皮膚炎による背部被毛の硬化および接触過敏は緩和傾向。洗浄は短時間に留め、リュシア調合の鎮静軟膏塗布と暗所隔離を継続。
患者経過:サンダーラビット……急性期治療終了に伴い、ドッグランでの短時間運動療法を開始。オルフェンおよびノクシアの観察下で、反射放電の非発生と良好な足取りを確認。引き続き経過観察とする。
安全・開拓管理:北方湖畔エリアへの開拓にあたり、村人の自由な立ち入りを一時停止。保護区管理下の作業員、警備補助、治療班については、指定導線、指定時間、入退場記録を条件に立ち入りを認める方針。
特記事項:氷泉竜ルシェルドより、瘴気に追われた小型魔物が森の浅い区域へ流れているとの警告あり。森の入り口で鳥の反応、足跡、瘴気反応を確認。今後はサラの臨時警備補助とノクシアの観察指導のもと、事前確認を徹底する。
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