第61話 怪我をした警備員にも守ったものがあります
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朝、従業員寮の世帯用区画では、リュシアが淹れたハーブティーの香りが静かに漂っていた。
「本当に、ここの水は軽いわね」
リュシアは湯気の立つ杯を両手で包み、目を細めた。
「薬草も、ここでなら根を痛めずに育つと思う。瘴気の強い土地では、葉は伸びても香りが死んでしまうから」
ノクシアは窓の外を見た。ルシェルドが開いた森の細い筋が、朝の光の中に見えていた。
「今日から、湖へ向かう除染が始まります」
オルフェンが静かに頷いた。
「あれは道ではない。治療の導線だ。ワタル先生は、土地を広げているつもりなどないのだろうな」
「はい。あの方は、いつもそうです。領域を増やしたとも、支配したとも言わない。ただ、患者を診るために必要だと言うだけです」
「だから、周りが動く。命令ではなく、必要に応じて人が集まる。……魔王軍で見てきたものとは、まったく違う」
「そうですね」
ノクシアは父の言葉に静かに頷いた。
「だが、今日からの除染作業は、これまでのルシェルド様の療養地までの除染とは性質が違う」
「と言いますと?」
オルフェンはハーブティーを一口飲んでから言った。
「湖へ向かう道を開けば、そこに棲んでいた小型魔物の動きも変わる。大型の魔物より、小さな魔物の方が先に反応することがある」
「昨晩の見回りでも、低い藪のあたりに細い爪痕がありました。狼ではありません。もっと小さな、木の根元を使う魔物です」
リュシアがノクシアの言葉を聞いて、思いついたように話した。
「小さい魔物……。強い香りの薬草は避けた方がいいかもしれません。過敏に反応するかもしれないから」
オルフェンはリュシアとノクシアを見て言った。
「そうだな。いずれにしても、今日は気を抜かずに進めよう」
***
「では、トーマさん。打ち合わせ通り作業を進めてください。俺たちもルシェルドの治療が終わり次第加わります」
「わかりました」
全員が息守りマスクを装着し、トーマの指示でそれぞれの持ち場についた。
「マルタ、オルフェンさんは俺と一緒に草刈り。ノクシアさんとリュシアさんはその後に浄化排水を撒いてください」
トーマが振り返って、レオンに声をかけた。
「レオン、周りの藪を見てくれ。作業員はこの線から奥に入らないようにする」
「わかりました」
レオンは作業員の安全を確保するために、いつになく真剣な面持ちで剣の柄を握った。だが、その指には以前のような焦りはない。
***
俺、リコ、エーリスはルシェルドのもとへ治療に行った。
『絶対診察眼』で見ても、瘴気の影は薄くなっていない。やはり、湖の除染を進めなければならない。
「ルシェルド。今日から、湖までの除染を始めることにした。でも、俺たちはお前ほど力がないから、少しずつしか進まない。その間もこうやって毎朝治療に来るからな」
ルシェルドは特に話さない。ただ、森の奥の湖の方角をその大きな瞳で見つめた。
***
「治療は終わりました。除染作業はずいぶん進みましたね」
俺はトーマに話しかけた。トーマは額の汗をぬぐいながら言った。
「はい、手分けをして、草刈りと浄化排水の散布を進めました。ワタル先生が来たら、すぐにプルとプルツーで除染できるように進めています」
「ありがとうございます。よし、プル、プルツー、任せたぞ」
俺が往診バッグを開けると、プルとプルツーが待ってましたとばかりに飛び出した。
そして、『ぷるるっ』『ぷるっ』と言いながら、地表に残った薄い瘴気を次々と吸収していった。
「このペースだとひと月くらいで湖までたどり着けるかもしれませんね」
「そうだといいのですが。気を抜かずに進めたいと思います」
トーマは作業の進み具合を見ながら答えた。
その時、右の藪から不自然なガサガサという音がした。エーリスが顔を上げる。
「魔力が乱れています」
「右の藪ですね。何かいます」
レオンは剣の柄を強く握りなおした。
その瞬間。
茂みの奥から、全身の毛を針のように逆立てた棘毛テンが、猛烈な勢いで飛び出してきた。
その目は焦点が合っていない。小さな身体は震え、何かから逃げるように暴れていた。そして、一番近くで地形を確認していたマルタへ突進した。
「危ない!」
レオンは即座にマルタの前に身体を割り込ませ、棘毛テンを睨みつけた。
剣を抜けば、一閃で止められる。たぶん、それが一番早い。
だが、レオンの脳裏に、以前ワタルが言った言葉がよぎった。攻撃じゃない。痛がっているだけだ。
「斬れば、俺は患者を殺すことになる」
レオンは剣の柄から指を離し、右腕を盾の裏に押し込んだ。
「来い!」
パニックになった棘毛テンの鋭い棘毛と牙が、レオンの右前腕を深く切り裂いた。さらに、逆立った棘毛の何本かが、盾の隙間から腕に突き刺さった。
「ぐっ……!」
レオンの指が、一瞬だけ開いた。盾を落としかけた腕が、小さく震えている。
レオンの盾に弾かれた棘毛テンに対し、ノクシアが即座に『影の壁』を展開した。
『影の壁』が音と光を遮り、棘毛テンの動きが止まった。
俺もレオンの元に駆け寄り、『絶対診察眼』で棘毛テンを診た。
「攻撃じゃない……触られるだけで痛いんだ! 瘴気性の皮膚炎で、毛包が腫れて、毛が棘みたいに逆立っている!」
エーリスが布でレオンの右腕を押さえ、淡い治癒の光を重ねる。レオンの右手の指が、力を入れようとしても震えていた。
マルタは土の上に膝をついたまま、震える手でレオンの背中を見つめていた。
「本日これ以上の作業は中止。レオン君の傷にも瘴気反応が出ている。棘毛が残っているかもしれない。レオン君とこの子を連れて、すぐに診療棟へ戻る!」
レオンは青ざめた顔で、それでもマルタの前から動こうとしなかった。
「……ワタル先生。俺、斬りませんでした」
「ああ。よく守ってくれた。すぐに治療する」
俺たちは棘毛テンを傷つけないように保定し、レオンと一緒に診療棟へ急いだ。
【施設管理カルテ】
患者経過:右前腕に多数の刺創・裂傷、および打撲。棘毛テンの棘毛が一部創部内に残留している可能性があり、創周囲に瘴気反応と一時的なしびれ、握力低下を認める。開拓エリア内での除染作業中、突発的に出現した魔物の突進から作業員マルタを庇った際に受傷。不殺の意志を貫き、抜刀を控えた上で作業員を保護した防衛行動によるもの。警備業務への復帰は一時停止し、診療棟で棘毛除去、創部洗浄、瘴気反応の経過観察を行う。
患者経過(新規魔物):棘毛テン……重度の瘴気性皮膚炎による接触過敏、および作業音による恐慌反応。ノクシアの影魔法により、傷をつけずに一時保定。
作業管理:湖畔方面への開拓・除染作業中、新規魔物との接触事故が発生したため、本日の作業を中断。全職員を退避させ、診療棟での治療を最優先とする。
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