第57話 野菜だけでは、身体は動きません
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この日も朝から、俺たちはルシェルド療養地までの除染作業と、ルシェルドの治療を行った。
午前の作業を終えて、食堂で昼食を食べていると、ダリオが厨房から出てきた。何やら神妙な顔をしている。
「ダリオさん、どうしましたか?」
「ワタル先生。食材が足りないんだ」
「えっ?」
「マルタの農園のおかげで、野菜は豊富になった。でもね、最近は北側森林の除染開拓や竜の治療に従事する職員が増えただろう。疲労回復には、肉・乳・卵といった『身体を動かすための食材』が要る。そこが、圧倒的に足りていないんだよ」
確かに、最近の食事を振り返っても、たんぱく質が少なかったことを思い出した。
食器を片付けていたセリアも、口を開いた。
「このままでは食堂として、皆さんの身体を支えきれません。安定した仕入れ先が必要です」
「わかりました。仕入れ先を探してみます」
「頼んだよ」
ダリオは厨房に戻っていった。職員の体のことを考えると急いで動かなければならない。
***
その日の午後。俺はリコとオルフェンとバルカ村のバロウ牧場に向かった。ガルド特製の「息守りマスク」を全員がつけている。
「オルフェンさんは瘴気の耐性があるから、マスクはいらなかったですかね」
「いえ。耐性はありますが、瘴気をずっと吸っていると冷静な判断が難しくなるんです。だから、マスクがある方が助かります。それにしてもこのマスクはすごいですね」
「ええ。ガルドが人間に合うように作ってくれました。でも、これから会いますが、最初の試作品はミノタウロス用の物だったんですよ」
オルフェンはマスクを左手で撫でた。
「このフィット感もいいですが、中のフィルターも驚きました。ここまで瘴気をシャットアウトできるとは」
「はい、プルとプルツーのおかげで空気、水、そしてフィルターまで。本当に助かっています」
俺の言葉を聞き、オルフェンは二度頷いた。
「そうですね。それにしてもスライムがそのような浄化作用を持つなんて話、これまで聞いたことがありません」
「前にノクシアさんにも言われました。プルとプルツーは珍しい個体なんですね」
「ええ。興味があります。しかも二体に分裂したってことですよね。それもあまり聞いたことがないです」
俺は驚いた。スライムは成長すると分裂するものだと思い込んでいた。
「保護区の仲間として観察してもらう分には、俺もお願いしたいです。ただ、プルたちに負担のあることはしません」
「了解しました。保護区はいろいろ興味深いことが多くて、毎日が楽しいです」
オルフェンの目は優しく笑った。
***
バロウ牧場に到着した。ミノタウロスの治療のころは毎日通った場所だ。
当時はそこまで感じなかったが、瘴気が以前よりも強くなっている気がする。
「ワタル先生。お久しぶりです」
バロウが俺を見つけて近づいてきた。
「今日は、ミノタウロスの診察と、バロウさんの牧場から食材用の肉を仕入れる相談をしたいと思ってきました」
「わかりました。まずはミノタウロスを診てください」
ミノタウロスは牧場の端で座っていた。口にはガルドが作成したマスクをしている。
俺は『絶対診察眼』でミノタウロスを診た。
脳の炎症は抑えられている。呼吸状態も問題はない。角の傷跡も順調に回復。症状は安定していた。
オルフェンはミノタウロスの近くに行き、全身をくまなく観察した。
「現在は落ち着いていますね。敵意による暴走はない。しかし、外縁の薄い瘴気に反応して肩の筋肉が硬直しているようです。今後、環境が悪化すれば再発のリスクが高いと思われます」
環境要因による再発の危険性をオルフェンは指摘した。その言葉を聞き、リコがマスクを外して鼻で細かく息を吸った。
「マスクがなくても問題ない程度だけど、周辺に漂う瘴気の匂いが、以前よりも重く、鋭くなっている。瘴気が濃くなっているみたい」
バロウは下を向いた。
「そうなんです。以前治療していただいた時よりも空気が悪くなっている気がしています。瘴気がどんどん迫ってきている」
そう言って、バロウは牧場を振り返った。
「瘴気が濃くなると牧場の経営も難しくなります。今後も続けていけるかどうか。ミノタウロスのことも心配です」
以前マルタもルミナ村の外の畑が徐々に瘴気にやられて農業ができなくなったと言っていた。世界を覆う瘴気の霧は範囲を少しずつ拡大している。
「今日は、ミノタウロスの診察と、バロウさんから肉を仕入れる話をしたいと思ってきました。ミノタウロスは無事に回復傾向にありますが、やはり環境問題が気になる。そして牧場経営の問題も聞かせていただきました」
俺はそう言って、バロウの目を見つめた。
「ルミナ村で農業をしていたマルタさん夫婦も、土が瘴気に侵食されてきて農業を維持するのが難しくなり、保護区に来て今は農業をしています」
バロウは俺の言葉を聞き漏らさないように、俺に向き合った。
「バロウさん。すぐにというのは難しいですが、保護区で牧場をやることを考えてみてはいかがですか? ご家族もいるし、新たに立ち上げる負担はあると思います。でも保護区なら、瘴気の除染作業を進めていますから、将来的にいいと思います」
「ワタル先生、ありがとう。先祖代々この土地で牧場をやってきたから、すぐに移るという決心をすることはできない。でも、家族でしっかり話し合いたいと思います」
「そうしてください。ミノタウロスにもきっといい影響を与えられると思いますから」
俺が視線を向けると、ミノタウロスは低く鼻を鳴らした。マスクが少しだけ揺れた。
「もっとも、こちらも水の問題があって、保護区の井戸と村の井戸の水脈が一緒なもんですから、これ以上取水量を増やせない。バロウさんが保護区に移るというのであれば、それまでに水の問題を解決したいと思っています」
「そうですか。どこも問題がありますね。……あ、それと、肉の仕入れの件は了解しました。早速対応したいと思います」
まずは食堂の当面の問題に道筋がつき、俺は小さく息をついた。
「ありがとうございます。ダリオさんがうちの仕入れ担当になりますから、あとでバロウさんのところに来て具体的な内容を話すように伝えます」
俺たちはバロウの牧場を後にした。
***
「保護区の外は瘴気が広がっているな」
俺はリコに話しかけた。リコは森の方を見た。耳が少しだけ伏せられている。
「そうなのだ。だからこそ、保護区で除染をしてきれいな空気を作ることに意味がある」
オルフェンは少しためらいながら話した。
「魔王軍は世界に瘴気を撒いて、支配の範囲を広げようとしているのです」
「えっ?」
「今の魔王の方針です。人間の肺は瘴気に弱い。魔物も瘴気が多いと狂暴になる。魔王軍が世界を支配するには、都合がいいのでしょう」
オルフェンは、苦いものを噛んだように目を細めた。
「私が統括観察官を退いたのも、その方針についていけなくなったからです。先代の頃、魔物を見る仕事は、まだ魔物を知るためのものでした。けれど今は違う。魔物を兵器にするため、どこを壊せば従うのかを探す仕事に変わってしまった」
オルフェンは淡々と事実を告げた。
「ノクシアが魔王軍を離れる前に出した最後の報告書は、保護区に関するものでした。そこでは、ノクシアはプルやプルツーの除染能力や、日々除染を進めている作業についてはまるで触れず、氷泉竜ルシェルドの危険だけに触れる内容としました。でも、いずれ保護区そのものが魔王軍にとって一番大きな障壁だと気づかれる時が来るかもしれません」
俺は思わず足を止めた。
患者を治しているつもりだった。けれど、それはいつの間にか、魔王軍の支配の前提を削る行為になっていたのだ。
リコはオルフェンの話を聞いて、少し身震いをした。
「そうしたら、今後魔王軍が保護区を攻めてくるかもしれないのだ……」
オルフェンはリコに低い声で答えた。
「そうですね。絶対に魔王軍が来ないとは断言はできません」
「でも、俺たちは変わりません。患者を治し、環境を整える。それが俺たちのやることですから」
俺の言葉を聞いて、オルフェンの目の光が和らいだ。
「ワタル先生のおっしゃる通りです。だからこそ、私たち親子も保護区で働くことにやりがいを見出しているのです」
オルフェンはそう言って、背筋を伸ばした。話しながらも歩みを止めなかった。
【施設管理カルテ】
食糧管理:職員数および開拓作業量の増加に伴い、食堂におけるたんぱく質供給不足を確認。ダリオより肉類、乳製品、卵に相当する高栄養食材の安定確保について相談あり。
患者経過:ミノタウロス……呼吸状態、興奮反応ともに安定。前回処置後の再発所見は認めない。ただし、牧場外縁部の瘴気濃度上昇に伴い、肩部筋緊張の増加を確認。長期的には再発リスクが高い。
環境評価:バロウ牧場周辺で瘴気濃度の上昇を確認。牧場および柵外縁に汚染兆候あり。現地での継続飼養には環境リスクが残る。
施設計画:大農園エリア外縁の除染安定区画に、将来的な仮牧場エリアの設置を検討。水資源への負担を考慮し、当面は定期仕入れを優先する。
特記事項:食糧供給体制の強化を優先課題として記録。また、瘴気範囲の拡大を受け、バロウに保護区での牧場経営を打診。バロウは家族と相談のうえ検討する意向。
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