第55話 最後の報告書には選んだ事実を書きます
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氷泉竜ルシェルドとの対話を終えて宿に戻った私は、消えかけたランプの火の下で魔導書を開いた。
先ほどまで一文字も進まなかったペンを、私は今、迷いなく動かし始める。
脳裏をよぎるのは、かつて実家で父オルフェンが静かに語った戒めの言葉だった。
「ノクシア。観察官がいちばん危うくなるのは、見たものを、軍の望む言葉に直せなくなった時だ。お前が真実を報告し続ければ、軍はいずれお前を疑う」
私はこの言葉を、自分を縛る鎖ではなく、軍を欺くための武器として定義し直した。
見た「真実」を消すのではない。あえて「軍の望む価値観」へと語彙を置換していくのだ。
報告書には、保護区の戦力をこう記した。
『対象施設の戦力は皆無。非武装の人間数名、獣人の娘1名、最下級魔物のスライム2体を中心とする小規模施設』
プルの「浄化能力」は単なる「給餌に伴う微細な清掃反応」とし、試験農園も「生存維持のための小規模な自給自足」と、戦略的価値を徹底的に剥ぎ取った言葉で綴った。
しかし、一点だけ、私は重大な事実をそのまま記した。
『氷泉竜ルシェルドが、対象施設近傍に定着』
これを隠せば、後に露見した際に軍の疑いの矛先が私の「沈黙」に向く。逆に記すことで、ガウルの興味を施設内部の「生活」から、伝説の竜という巨大な「戦略的障害」へと強制的に誘導する。
それが私の選んだ、最後にして最大の選択だった。
***
翌朝。
私はルミナ村を離れ、ガウル城下の退役観察官居住区へと足を向けた。
退役観察官居住区とは名ばかりで、功労者の住まいであると同時に、軍を離れた者を逃がさないため、常に憲兵の目が光る、静かなる檻でもあった。
実家の自室に入り、私は棚の奥で埃を被っていた一冊の古いノートを手にする。それは幼い頃、父の背中を追って魔獣を追いかけていた頃の「観察日記」だった。
『魔物を生き物として見たい。いつか、魔物たちが怯えず、楽しく過ごせる世の中を記録したい』
そこには、今の保護区にある光景が、幼い文字で予言されていた。自分の決断が一時的な感情ではなく、魔獣観察官としての自らの原点への回帰であることを、私は確信した。
ダイニングでは、父オルフェンと母リュシアが私を待っていた。
「ノクシア、調査はどうなった?」
父は私に問いかけた。
「父様。私は、軍の望む言葉に直した報告書を作成しました」
「それは、どういうことだ?」
父は怪訝そうに私を見つめた。
「私は、あの保護区に未来を見ています。それは、私の子どものころからの夢がそこで実現していることを見たからかもしれません。あの保護区では、魔物が怯えず、幸せにただの生き物として人間と共存しています。それを失いたくない。だから、保護区に不利になる情報は省きました」
「魔物が兵器ではなく、生き物として観察される場所か……。そんな場所が、本当にできたのか?」
父は私の話を聞き、目を丸くした。しかし、厳しい表情に戻り、低い声で話した。
「しかし、ノクシア……。それをすれば、お前は魔王軍に戻れなくなるぞ」
私は目を伏せ、自らの退路を断つ告白を始めた。
「私は魔王軍を離れ、保護区へ行きます」
「えっ?」
母が手にしていたティーカップを落とした。硬い音が、ダイニングに響いた。
「まだ、保護区の管理者とは話していません。でも調査で見てきた限り、彼らは私たちを受け入れてくれると信じています」
「私たち……?」
父が私の言葉を繰り返した。
「そうです。父様、母様。私と一緒に来てください。あそこには、私たちの知識を必要としている魔物たちがいます」
父は、私の目をじっと見つめた。
「それは逃亡なのか。それとも選択なのか」
私は揺らぎのない声で答えた。
「選択です。自分らしく生きるために。怯えずに生きるために」
私の言葉を聞いた母が、娘の決然とした、しかしどこか晴れやかな顔を見て微笑んだ。母は、かつて「綺麗な空気の中で息をしたい」と願っていた。
「行きましょう。あなた。ノクシアがこんなに真剣に悩んで出した結論です。親が応援しないわけにはいきません。そこでなら、綺麗な空気の中で育つ薬草を、もう一度見られるかもしれませんし」
「そうだな」
父は深く息を吐き、それから静かに笑った。
「だが、私たちは監視されて生きている。スムーズに抜け出せるかどうか」
「そこについては、調査で外出するということにしておきます。明日、獣王ガウルに報告する際に、両親とともに調査すると伝え、了解を得ておきます」
「頼んだぞ。私たちは手荷物を準備して待っている」
「ここには愛着のあるものが多いけど、ほとんど置いていかなきゃだわね。薬草鉢も……と言いたいところだけど目立つわね。種袋だけにしましょう」
母の生活感のある一言が、家族全員の覚悟を繋ぎ合わせた。私は自室に戻り、ガウルへ残す短い置手紙を綴った。
***
翌日。獣王ガウルの居城の謁見の間。
「それで、調査の結果を教えろ」
威圧感のある声でガウルは私に言い放った。
「はい。まずはお手元の報告書を確認してください」
私は選び直した報告書を元に、淡々と口頭報告を行う。
「以前お伝えしましたが、対象拠点の戦力は皆無に近いです。人間は数人増えましたが、専門的な武人もおらず、スライムが2匹いる程度。治療をした魔物も3匹ほどいますが、これらが対象拠点の戦力になることはありません」
私の報告に、ガウルはそうだろうと言わんばかりに口元を緩ませ、大きく首を縦に振った。
「ノクシア。以前お前が口頭で報告した際、対象拠点の危険性を言っていたが、実際に調べたら戦力的に大したことがないと判明したということか」
「はい。ガウル様のおっしゃる通りでした。ただ、この拠点では瘴気に対抗するために無駄なあがきとして色々施設を拡張している様が見受けられます。次の調査では、両親を連れて、専門的な知見を補足したいと考えています」
「お前の父親は以前観察官だったな。母親は薬草の専門家……。わかった。だが、対象拠点に危険がないのに、どうして両親の同行を求めるのだ?」
私は、胸の鼓動を抑え、極めて平坦な声で答えた。
「もう一つ、報告があるんです」
「なんだ?」
「対象拠点の近くに氷泉竜ルシェルドが定着したようです。対象拠点との関係はわかりませんが、魔王軍の侵攻ルートの重大な阻害要因となり得ます」
「なに……? 氷泉竜ルシェルドだと!? 水脈守護種が、人間の施設の近くに降りただと!?」
ガウルの反応は、ノクシアの計算通りだった。
「あやつには、魔王様も余計な手出しをするなと言われている。それが対象拠点のすぐ近くに?」
「はい。ですので、父の知見を活かして氷泉竜の観察をしたいと思っています。また、私はルミナ村で夜行性魔物専門の薬草師兼素材鑑定士と名乗っています。滞在期間も長くなり、薬草の知識をもっと正確に出さないと疑われます。ですので、母にも同行してほしいと思っています」
ガウルは、私の言葉が耳に入っていないようだった。私の提出した報告書を握りしめた。
「ルシェルドの対応……。魔王様に早急に報告せねばなるまい」
ガウルは報告書を掴んで席を立った。
「ガウル様。両親の同行はよろしいですか」
「任せる。好きにせよ。わしは急ぎ魔王城に向かう」
ガウルはそう言い捨てて部屋を出ていった。
謁見の間に一人取り残された私は、用意していた「置き手紙」をガウルの椅子の横にあるテーブルに置いた。
『本報告書を、観察官ノクシアとしての最終提出物とします。以後、魔王軍には戻りません。これは誰の命令でもなく、私自身の判断です』
***
ガウルの居城から実家に戻った私は、両親とともにバッグ一つの最小限の荷物をもって家を出た。
家族3人でゆっくりした足取りで門に向かうと、見張りの憲兵に呼び止められた。
「オルフェンの一家。どこかに行くのか? ガウル様の許可はあるのか?」
私は観察官の権限を誇示し、冷徹に言い放った。
「ガウル様への報告は済ませてある。両親の同行についても、任せるとの言葉を頂いている。気になるなら、城へ確認を取れ。調査の遅延は、そちらの責任になる」
観察官としての最後の「言葉」を使い、私たちは門を通り抜けた。衛兵は私たちを追ってこなかった。
背後の瘴気の街を振り返ることなく、私たち3人は、保護区へと続く道を進む。
魔王軍の地図で、白い欠落と呼ばれた場所。
けれど今の私には、それが欠落には見えなかった。そこにあるのは、私たちが自らの手で守り、記録していくべき、たった一つの確かな「生活」なのだから。
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