第54話 報告書にはまだ書けません
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氷泉竜ルシェルドの初回処置を終えた翌朝、俺とリコはまず冒険者ギルドを訪れた。
「……ははっ、ガハハハハ!」
処置の顛末と、ルシェルドが保護区の北側外縁に留まることになったと報告した瞬間、ギルドマスターのモルガナは腹を抱えて大笑いした。
「山道を開けろとは言ったが、伝説の竜を隣人にしろとは言ってないよ! 全盛期のあたしだって考えつかない解決策だ。ワタル、改めてお前に頼んで正解だったね」
彼女は元高ランク冒険者として、山道の流通再開という実務的成果を喜びつつも、討伐不可能な伝説級を「治療」によって収めてしまった俺の異常性を、痛快そうに面白がっていた。
しかし、その足で向かった村長宅では、正反対の光景が待っていた。
「伝説の竜が……保護区の、すぐ近くに、住む……だと……?」
報告を聞いたゴランは、椅子の背に手をかけたまま、そのままズルズルと床に崩れ落ちた。ミーナの母セラが慌ててゴランを支え、椅子に戻した。
「ワタル先生。わしは、山道を開けてほしいとは思っていた。だが、竜を村の近くに連れてきてほしいとは、一度も思ったことはないぞ……!」
「俺が決めたわけではありません。ルシェルド本人の意思です」
「本人の意思で住まれるのが一番困るんじゃ!」
俺の正論にゴランが悲鳴を上げていると、騒ぎを聞きつけたミーナが飛んできた。
「伝説の竜? すごーい! おじいちゃん、ミーナも見たい!」
「だめじゃ、ミーナ! 絶対に近づいてはならん!」
いつになく厳しく鋭い声に、ミーナがびくりと肩を震わせる。ゴランは彼女を遠ざけるように背に隠すと、俺を必死の形相で睨んだ。
「……先生たちが安全を決めるまでは、一歩も近づかせん。ワタル先生、何かあったら……いや、何もなくても毎日報告に来い! いいな!」
【施設管理カルテ】
周辺状況:氷泉竜ルシェルド、保護区北方外縁部に暫定滞在。初回処置後の疼痛反応は軽減。北方山道の通行再開に向け、冒険者ギルドと安全確認を開始する。
行政対応:村長ゴランに対し、伝説級個体の保護区近傍滞在を報告。緊急連絡体制の厳格化、および当面の日次報告を要請される。
安全管理:ミーナを含む村民の不用意な接近を禁止。保護区外縁部における立入制限区域の設定を検討する。
***
その夜、村の宿屋の一室。
私は、机の上に広げた魔導書を前に動けなかった。
そこには、これまで書き溜めてきた「監察記録」の暫定資料が並んでいる。指先が、過去の自分の言葉に触れた。
第239号。魔物を「患者」と呼び、施設を「帰る場所」とする思想。あの時、私はそれを軍事的な脅威として記録した。だが今、ドッグランで眠る彼らの寝息を思い返して、これ以外のどの言葉が彼らを正しく表せるというのか。
第246号。密猟者10名の接近。処理結果、自滅。私はあの時、報告書に「守った」とは書かなかった。書けなかった。
第248号。水資源の脆弱性。拠点を停止させ得る致命的な弱点。けれど私は、それを伏せた。「観察継続」という名の嘘をついて。自分はとっくに、この場所の共犯者になっていたのだと突きつけられる。
そして、第249号。氷泉竜ルシェルド。
(報告しなければならない。これは、アルデン大陸の瘴気支配を揺るがす致命的な情報だ)
しかし、私の指先は止まったままだった。
「軍事拠点」「兵站」「戦略兵器」――これまで使ってきた魔王軍側の語彙が、あの一樽の薬で救われたルシェルドの穏やかな目と重なるたび、砂のように崩れていく。
(書けない……。今の私には、あの光景を壊すための言葉が出てこない)
私は魔導書を閉じ、夜の闇を見つめた。
(書けないなら、もう一度観察し直すまで。……自分の迷いの正体を)
***
深い夜、私は再び保護区へと忍び寄った。
今夜は門番のキャスパーがおらず、レオン一人の巡回日。
私はこれまでの定点観測から、彼の巡回パターンの中に、今夜だけ開く細い空白を見つけていた。
音もなく柵を越え、敷地内を歩く。
だが、以前のように兵站拠点の情報を探る気にはなれなかった。
私の視線の先には、ドッグランで安らかに眠るコロやリーフ、そして窓際で淡く揺れるプルの光があった。そこにあるのは破壊すべき敵拠点ではなく、ただの穏やかな「生活」だった。
私は吸い寄せられるように施設を抜け、北の森との境界、ルシェルドが身を置く場所へと向かった。
月明かりの下、巨大な影が横たわっている。
『――名を偽る者よ。お前は人間ではないな』
古びた鐘のような重厚な響きが、私の脳裏に直接届いた。
『以前、ここで魔法が放たれ、複数の男たちの声が森で消えた。……お前の仕業だな』
密猟者事件の真相を突きつけられ、私は言葉を失った。その沈黙こそが、私が任務ではなく衝動で魔法を放った事実を認める回答となった。
『なぜ、そのようなことをした』
ルシェルドの問いに対し、私は遠くに保護区の夜景を見た。そこには、かつて自分が古いノートに描いた「魔物が怯えず、楽しく過ごせる世の中」の夢が、現実の形をして息づいていた。
葛藤する私を見つめ、ルシェルドはただ事実として告げる。
『望むように振る舞うがいい。お前はもう、答えを知っている』
ルシェルドは金色の瞳を閉じて体を丸めた。その後は何も語らなかった。
私は静かに魔導書を閉じた。報告すべき事案だと理解しつつも、もうその光景を否定する言葉を持ち合わせていなかった。
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