第53話 伝説の竜と言葉を交わします
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保護区の隔離処置室に据えられた『高濃度浄化液培養槽』の前に立ち、俺は最後の手順を終えた。
プルとプルツーから分けてもらった浄化成分を投入し、魔力共鳴の回路を起動する。
「よし。これで24時間の熟成に入る。ガルドさんの言う通り、成分が完全に馴染むまで待つしかない」
明朝完成するのは限られた量だ。その中から、給排水に必要な分を除き、樽一杯分の浄化液を治療に使う。それは伝説の竜ルシェルドの古傷を焼く瘴気を中和するための、最高濃度の「薬」になるはずだ。
その日の午後、俺はリコ、レオン、エーリス、そして薬草師のノクシアを新棟のダイニングに招集した。
明日の再訪に向けた、最終的な運搬と治療方針の会議のためだ。
「問題は、あの原液の樽をどうやって山道の現場まで運ぶかだ。馬車が通れるような道じゃない箇所もある」
俺が地図を広げると、レオンが自らの逞しい腕を叩いて身を乗り出した。
「ワタル先生、俺に任せてください。手押しの荷車を使います。俺の脚なら、あの急斜面でも樽を揺らさずに押し上げられます」
「レオン君一人で、大丈夫か?」
俺が問い返すと、彼は迷いのない目で頷いた。
「冒険者を休業してここで働くと決めたんです。剣を振るう代わりに、この身体でみんなの役に立ちたい。……それに、あの険しい場所まで確実に薬を届けるには、小回りのきく手押しの荷車が一番確実です」
レオンの言葉には、下働きとして過ごした一か月で培われた、新しい「守り手」としての自負が宿っていた。
リコも彼の決意を汲み取るように頷く。
「そうね。細い道で立ち往生するリスクを考えれば、レオンの筋力に頼るのが一番合理的なのだ。……それからエーリスさん。処置中の『鎮静』だけど、やっぱりあの巨体だと魔法だけじゃ厳しいわよね?」
「ええ……。何らかの形でルシェルドさんが動きを止めてくれなければ、魔法を定着させる隙すら作れません」
エーリスが不安げに杖を握りしめた。
「そうですね。ルシェルドが自分で動きを止めてくれないと、あの巨体をこちらの力で押さえることはできない」
俺が呟くと、ノクシアが静かに口を開いた。
「……古の伝承によれば、長く生きた竜種は人間の言葉を理解すると言われています」
ノクシアの助言は、俺にとって一筋の光だった。もし対話が可能なら、獣医として最も理想的な「患者の同意に基づく治療」への道が開ける。
***
翌朝。熟成を終えた最高濃度の原液一樽が完成した。
レオンが引く人力の荷車にその樽を積み、俺たちは再び北方山道へと向かった。
レオンは一言も弱音を吐かず、額に汗を浮かべながら、険しい上り坂を一歩ずつ力強い足取りで踏みしめていく。
「みんな、ここで待っていてくれ。……俺一人で行く」
まずは、治療を受け入れてくれるか確かめる必要があった。俺は岩陰を抜け、ルシェルドの視界に入る位置まで一歩踏み出した。
巨大な尾が岩壁を叩く震動が足元から伝わる。
俺は声を限りに叫んだ。
「ルシェルド! お前の傷を治しに来た! その傷口を洗わせてくれ!」
咆哮が止んだ。金色の巨大な瞳が、足元の小さな俺を捉える。
「少し痛むかもしれないが、絶対によくなる。……俺を、俺たちを信じてほしい!」
沈黙の時間が流れた。やがて、伝説の竜はゆっくりと巨体を屈め、最も激痛が走っているはずの「左翼根部の広大な裂創」を、無防備に俺の目の前へと差し出したのだ。
だが、何も言葉を発しない。
「ルシェルド、治療させてもらうぞ」
改めて言葉を待ったが、何も聞こえない。だが、竜は動きを止めている。
「……よし。レオン、リコ、来てくれ! エーリスさんも、岩陰を伝って近くまでお願いします!」
レオンが歯を食いしばりながら、荷車を俺のそばまで押し上げた。
俺たちは樽を下ろし、剥き出しになった赤黒い筋肉へひしゃくを使って高濃度浄化液を直接注ぎ込んだ。
ジュゥゥゥッ、と凄まじい音を立てて傷口が泡立つ。
溢れ出す黒い廃液を、プルツーが瞬時に吸引し、浄化していく。
激痛にルシェルドの巨体が身震いし、俺は反射的に硬直した。
だが竜は俺の手元をじっと見つめたまま、それ以上暴れることはなかった。彼は、俺たちの手を確かに信じて耐えていた。
一樽すべての浄化液を使って洗浄を終えた俺はエーリスに告げた。
「エーリスさん、仕上げを!」
炎症反応が低下したのを見計らい、エーリスが『組織安定化』の魔法を施行した。かつてミーナを救った時と同様に、すべてを閉じず、残留した瘴気が抜けるための「排出路」をあえて残した状態で、創部を固定していく。
その間、竜は何も発しなかった。
***
「これで良し。また治療に来る」
俺は竜に聞こえるように大きな声で伝え、その場を離れようとした。
その時だった。
『――人間よ。……どうして、我を救った』
頭の中に直接、重厚な響きが届いた。俺は竜の方に振り返った。大きな瞳が俺を見つめている。
「俺は獣医だ。お前の痛みの声をずっと前から聞いていた。……遅くなってすまなかった」
ルシェルドは一度だけ、深く頷いた。
『渡り鳥から聞いた。森の近くに、空気の澄んだ場所を築く者がいるとな。お前のことか。あそこなら、我の治療も進むだろう。……我はしばらく、そこに身を置く。傷を洗え。毎日だ』
「わかった。俺は治療を途中でやめることはない。安心してくれ」
竜は慎重に翼を広げた。左翼根部をかばうような動きだったが、先ほどまでの錯乱はない。ひとたび羽ばたくと、風が山道を押し払うように吹き荒れた。
ルシェルドは低く、大きく旋回しながら、南の森の方へと飛んでいった。
【施設管理カルテ】
患者経過:氷泉竜ルシェルド……高濃度浄化液原液による初回洗浄を実施。流出した瘴気をプルツーが吸収・浄化。エーリスによる組織安定化魔法を施行し、残留瘴気の排出路を確保した状態で創部を固定。初回処置により疼痛反応は一時的に軽減。患者は処置の意図を理解し、協力的態度を示した。
処置方針:創部への瘴気再浸潤を防ぐため、継続的な局所洗浄を実施予定。患者自身の意思により、保護区近傍(北側外縁)での滞在を暫定受理。
特記事項:搬送にはレオンによる人力の荷車を採用。狭い山道における重量物の運搬手順を確立。患者より、保護区周辺の空気環境について渡り鳥から情報を得ていた旨の発言あり。
***
私は、魔導書を握りしめたまま、その場から動けずにいた。
夜魔族の鋭敏な知覚は、ルシェルドの念話が周囲の魔力に残した震えを、余さず拾っていた。
(……報告しなければならない。これは、致命的な情報だ)
氷泉竜ルシェルド。アルデン大陸の水脈を守る要石が、あろうことか自ら人間のもとへ下り、その「住民」になろうとしている。
だが、私の指は、魔導書の上で止まったまま動かなかった。
先ほどまで痛みに狂っていた伝説の竜が、剣ではなく、一樽の「薬」によって安らぎを得た光景が脳裏に焼き付いていた。
「……私は、何を書けばよいのか……」
誰にも聞こえない声で呟き、私は魔導書を閉じた。巨大な竜が保護区の外縁へと羽ばたいていくのを、私はただ、一人の目撃者として見つめ続けていた。
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