第52話 伝説の竜にも傷口があります
城下町レグナへと続く主要な山道。
そこは今、生命の咆哮というよりは、大地の震動に近い凄まじい轟音に支配されていた。
吹き付ける風には氷のような冷たさと、喉を焼くような不快な瘴気が混じっている。
俺はガルド特製の『息守りマスク』を強く押さえ、飛来する岩の破片を避けて岩陰に身を潜めた。
「ワタル、ここから先は危険すぎるのだ! 痛みのせいで周りが見えていない!」
リコが銀色の耳を激しく伏せ、風の隙間を縫うように叫ぶ。彼女の野生の勘が、ドラゴンの無秩序な暴走を敏感に察知していた。
「岩陰を頼りに、限界まで接近する。……二人はここで待っていてくれ」
俺はリコと、薬草師として同行しているノクシアをその場に留め、慎重に前進した。巨大な岩壁を叩くドラゴンの尾が、地響きと共に土煙を上げる。
氷泉竜――地下水脈を守るとされる伝説の竜は、もはや神聖な守護者の面影はなく、ただ激痛に悶え、周囲を破壊し続けていた。
俺は突き出した岩の影に滑り込み、荒れ狂う巨体を見据えた。
(――『絶対診察眼』)
意識を集中すると、視界に透過図が重なる。その巨体の表面と、鱗の隙間に潜む傷口の奥を透かすように診ていく。
【竜種:氷泉竜】
【状態:重度疼痛反応/錯乱】
【外傷:左翼根部から背側にかけての旧裂創】
【創部状態:瘴気浸潤/炎症反応極大】
【瘴気耐性:高】
【原因推定:開放創部からの瘴気侵入による急性疼痛】
【処置方針:創部洗浄、瘴気除去、鎮静、固定化】
【現地処置:不可】
診えた。
ドラゴンの強靭な鱗が大きく剥がれ、赤黒い筋肉が露出している箇所がある。おそらくは数十年、あるいは数百年前に負った古い傷跡だろう。
本来、氷泉竜は高い瘴気耐性を持っているはずだ。だが、この剥き出しの傷口は別だった。周囲の環境汚染によって濃縮された瘴気が、防御の薄い内部組織へと直接浸み込み、中枢神経を絶え間なく焼き続けているのだ。
(瘴気に弱いんじゃない。傷口に毒を塗り込まれているようなものだ。……これじゃあ、狂うのも無理はない)
治療方針は明確だ。だが、今の俺の往診バッグには、この巨体の炎症を抑え、瘴気を洗い流すための資材が圧倒的に足りなかった。
「診ることはできても、今の俺には何もしてやれない……」
俺は唇を噛み、二人を促して一度ルミナ村へ引き返す決断を下した。
***
冒険者ギルドの扉を勢いよく開けると、そこにはかつてないほど表情を強張らせたモルガナが待っていた。
「氷泉竜ルシェルド。……まさか、本当にいたのか」
モルガナの顔から血の気が引いた。
俺の報告を聞き、彼女は古びた伝承を語るように重く口を開いた。
「400年以上前から北の山に住まい、地下水脈を守り続けていると言われる伝説の竜だ。あれはただの魔物じゃない、山と水脈そのものに近い神聖な存在なんだよ。……そんな伝説級を相手に、今のあたしたちに何ができるというんだい」
かつて『閃光』と呼ばれた元高ランク冒険者の言葉には、抗いようのない諦念が混じっていた。
「山そのものであっても、痛みを感じている患者です。傷口に瘴気が入り込んでいる。そこを洗い流して保護できれば、落ち着かせられる可能性があります」
「洗い流す? あの巨体をか? どれだけの水が要ると思っている」
モルガナが俺の目を射抜くようにして、冷徹な現実を突きつけた。
「あんたたちの保護区の井戸からは、これ以上一滴だって余分には汲み上げられないんだよ。ゴランから話は聞いている。村の命綱を危険に晒してまで、伝説の竜を救えと言うのかい?」
言葉に詰まった。
水がなければ、患者は救えない。だが、水を汲み上げれば、村の生活が崩れる。インフラの限界という巨大な壁が、獣医としての俺の前に立ちはだかっていた。
***
夕暮れの保護区に戻った俺は、一人、給排水設備の前に立ち尽くしていた。
窓際ではプルが、床下ではプルツーが、いつものように穏やかに空気を浄化している。
俺は、ドラム缶ほどの装置を見つめた。
『高濃度浄化液培養槽』
そこには、プルたちの浄化成分を丸一日かけて熟成させた、青く澄んだ液体が湛えられている。
「……待てよ。俺は、水の量ばかりを考えていた」
ふと、医学的な確信が脳裏をよぎった。
あの巨大な傷口に必要なのは、川のような大量の水ではない。瘴気を中和し、痛みを劇的に下げるための「薬」だ。
2000リットルの水で薄めて洗うのではなく、培養槽で濃く育てた、この浄化液原液をそのまま持っていけばどうなる。
一樽という限られた量でも、傷口表面の瘴気を中和し、炎症を抑える最初の処置――初回洗浄としての役割は、十分に果たせるはずだ。
これならば、井戸から追加の水を汲む必要も、村の取水制限を破る必要もない。
「リコ、方針が決まったぞ」
俺は帳簿をつけていた彼女を呼び寄せた。
「水は増やさない。代わりに、今ある培養槽で、最高濃度の浄化液を一樽だけ仕込む」
リコが驚いたように顔を上げ、やがて俺の意図を汲み取って力強く頷いた。
俺は北の空を見上げ、猛り狂うドラゴンの姿を思い描いた。
(待っていろ。必ず、お前の傷を洗うための薬を持っていく)
診断はできた。薬も造れる。
俺は獣医として、巨大な患者を救うための「最初の一歩」を静かに胸に誓った。
【施設管理カルテ】
患者経過:氷泉竜……北方山道にて確認。左翼根部から背側にかけての広範囲旧裂創を確認。創部に瘴気が浸潤し、耐性外組織への直接刺激による重度疼痛反応および錯乱を生じている。現地処置は不可能と判断し、準備フェーズへ移行。
処置方針:大量の清浄水による洗浄は資源制約上困難。培養槽を用いた高濃度浄化液の原液による「局所中和処置」を採用する。
資源管理:共有水脈の取水制限を遵守。現有の培養槽バッファを薬剤として転用し、追加取水を行わずに処置資材を確保する。
***
ノクシアは宿屋で魔導書に短く記した。
『氷泉竜ルシェルド、左翼根部に旧裂創。瘴気浸潤による疼痛反応を確認』
そこでペンが止まった。
続くべき戦術的所見――「創部への追加汚染により無力化可能」。
その一文だけは、どうしても書けなかった。




