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魔物は討伐しません、診察します〜転生獣医のもふもふサファリパーク開拓記〜  作者: あおにし
第2部 夜魔族ノクシア

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第49話 食卓は、保護区の仕事になります

密猟者たちの襲撃未遂事件から二週間が経過した。


保護区の北側、かつて瘴気に焼かれ黒ずんでいた拡張エリアの農園には、今や瑞々しい緑の葉が溢れんばかりに茂っている。


「……よし、いい味だ。甘い土は嘘をつかないよ。こいつはもう、立派な保護区の野菜だね」


農家のマルタが、自慢の畑の端で土を指に乗せ、満足げに目を細めた。村の畑の浸食に絶望していた彼女は、今やプロの顔に戻っている。


俺はその隣で、ふかふかになった茶色の土を見つめた。


「マルタさん、トーマさん。……野菜を買い取るだけの関係は、今日で終わりにしませんか」


俺の言葉に、マルタが驚いたように顔を上げた。


「終わりに……? ワタル先生、まさか、もう野菜は要らないって言うのかい?」


「逆です。俺の夢を聞いてください。ここは、まだ診療所から始まったばかりの小さな保護区です。でも俺は、この地域から瘴気をなくして、人間も魔物もマスクをせずに生活できる場所を広げたいんです」


俺は、まだ黒い瘴気に覆われている北側の森の境界を指差した。


「単に俺たちが食べる分を作るだけじゃない。いずれはこの保護区に大きな農園を作って、瘴気で食べる場所を奪われた人たちを支えられるようにしたい。そのためには、土の声を聴けるお二人の技術が必要です」


マルタとトーマは俺が言う言葉を一言も聞き漏らさないように、じっくり俺を見つめた。


「野菜を売ってもらう相手としてではなく、同じ志を持つ農業部門の仲間として、俺たちと一緒にこの土地を耕し直してくれませんか」


俺の語る「夢」の熱に、マルタとトーマの瞳に職人としての野心が灯った。


「……そんなデカい話、断れるわけがないだろう。先生、あたしたちで良ければ、その夢、土から支えてやるよ!」とマルタが弾んだ声で答えた。


トーマも「水路と農具は、俺が見る。畑を広げるなら、道具も人も要るからな」とゆっくり言った。その表情は明るかった。


こうして、保護区に初めての正式な生産部門が誕生した。


***


その日の昼前、石工棟梁のロッカが仕上げの槌音を響かせ、従業員寮の完成を告げた。


「お待たせ。これでようやく、マルタたちも村から通わなくて済むね。寝る場所ができてこそ、人は腰を据えて働ける。これがアタイの建築の基本だよ」


マルタ夫妻は世帯用住居へと入居することにし、翌日引っ越してくることになった。保護区は人々が根を下ろして暮らす「共同体」としての体温を持ち始めた。


***


だが、組織の拡大は、同時に隠れていた歪みを浮き彫りにした。


お昼時、一階のダイニングからは、いつになく殺伐とした物音が響いていた。


「リコさん、あの、シーツの洗濯は……」


「今やってるのだ! あと5分待って! エーリスさん、そのお皿、棚の右に並べて!」


リコが髪を振り乱し、昼食準備に追われていた。


明日からはマルタ夫妻も居住職員だ。俺、リコ、エーリス、レオン、そしてマルタ夫妻。計6名分の「一日三食」の全責任がリコ一人に集中することになる。


現に保護区の拡大によりリコの仕事も多くなり、本来の職務である帳簿管理には誤字が混じり始めていたし、保護区住民であるコロ、リーフ、ハニーの手入れも中途半端になっていた。


「……仕組みの欠陥だ。リコを雑用係にしてはいけない。少なくとも食事係からは解放させないと」


俺は生活基盤を分業化することを決意し、村のギルドマスター、モルガナのもとへ走った。


***


「なんだい、今度は食事の担当かい? あんたのところも随分と大所帯になってきたねえ」


相談を受けたモルガナは、ニヤリと笑うと、どっかと椅子に腰を下ろした。


「……ちょうどいいのがいるよ。あたしの弟のダリオと、その嫁のセリアさ。いま村の宿屋でくすぶっててね」


「モルガナさんの、弟さんですか?」


「ああ。あたしとは似ても似つかない、丸っこくて腰の低い男さ。若い頃に冒険者を諦めて包丁を握った不器用な奴だが、客の顔色を読むのはプロだ。あの意気地なしのキャスパーの弱さも、その父親であるあいつが一番分かっている」


モルガナはそう言って微笑んだ。


「それに嫁のセリア。フロントを長く仕切ってた。現場を締めさせたら右に出る者はいないし、マナーには人一倍厳しいよ。ワタル、あんたが作ろうとしているのは様々な人間が隣り合って飯を食う場所なんだろう? だったら、ああいう『秩序』を叩き込める女が絶対に必要だ」


「わかりました。そうしたら、モルガナさんから二人に保護区に面談に来てもらうように伝えてもらえますか?」


「おう。明日保護区に行くように伝えるよ」


モルガナは、腹の底から大きな声で笑った。


***


翌日、新棟のダイニング。こちらは、俺とリコ、エーリスの三人。向かいにダリオとセリアが座っていた。


「保護区も人が増えて、食事の準備に負担がかかってきています。そこを担当してくれる人を探していたところ、モルガナさんからあなたたちを推薦されました」


俺はそう言って微笑んだ。


「私たちは15年以上、宿屋で働いていました。私がフロント係として、夫が厨房で」


セリアが話し始めた。


「でも、最近代替わりがあって、オーナーが変わりました。新しいオーナーは差別的な人で、私たちとはしょっちゅう衝突するようになりました。そのまま働き続けていいものか悩んでいた時に、モルガナ姉さんからこちらの話を薦められ、今日来たということです」


セリアはそう言った後、深く頭を下げた。ダリオもそれに続き、沈痛な面持ちで頭を下げる。


「……あの時は、申し訳ございませんでした。かつてお二人が宿に泊まりたいと来てくださった時、オーナーが獣人の方と魔物連れを拒絶しました。フロントに立っていた私は、それが間違っていると分かっていながら、何も言えずに黙ってしまいました。……ずっと、胸に刺さっていたのです」


宿屋でのあの日、リコが寂しく笑った光景が脳裏をよぎる。


沈黙の後、リコが静かに、しかしはっきりとした声で口を開いた。


「あの時は、悲しかったし、とても寒かったのだ。でも、今ここで謝ってくれたことは、ちゃんと受け取る。これから一緒に働くなら、次に誰かが同じように断られそうになった時、黙らないで。……それで、もう大丈夫。これからは仲間なのだ」


共同運営者として成長したリコからの、重い「行動責任」の要求だった。


ダリオは震える声で感謝を述べ、セリアは凛とした顔で付け加えた。


「食堂は、食べる場所です。ですが同時に、誰が隣に座っても嫌な顔をしない練習をする場所でもあります。マナーを守れない方には、私から厳しく言わせていただきますわ」


「わかりました。一緒に働いてください。これからよろしくお願いします」


俺は二人に頭を下げた。こうして保護区を支える仲間が増えた。


俺はロッカを呼び、将来の増員も見越した、十分な拡張性を備えた「職員食堂棟」の設計を依頼した。


【施設管理カルテ】

農業部門管理:拡張農園にて初期生育の安定を確認。マルタを農業部門責任者、トーマを農地管理実務担当として正式雇用。収穫物は保護区内の食材として利用し、余剰分については村への販売ルートを構築する方針とする。

施設拡張管理:従業員寮の運用を開始。マルタ夫妻が入居予定。人員増に伴い、将来的な拡張性を備えた職員食堂棟の新設をロッカに依頼。

業務体制是正:常時食事提供が必要な居住職員の増加に伴い、生活管理の専任者としてダリオ(厨房)およびセリア(接客・生活管理)を採用。リコを事務・会計・経営判断業務へ復帰させる。

患者経過:サンダーラビット(ライ)……経過良好。

特記事項:過去の宿泊拒否事案について、当事者間で謝罪と受容を確認。今後の協働関係に支障なし。


***


その夜。


警備見習いのレオンが一人、松明を持って外周を巡回していた。


二週間の定点観測の結果、門番キャスパーの応援がない「一人体制」の日を特定したノクシアが、音もなく潜入に成功する。


彼女の目に飛び込んできたのは、生き生きと育った野菜、整備された従業員寮だった。


ひそやかにワタルの診察室に忍び込む。そこには計画図面があり、「職員食堂」の文字が書かれていた。


ノクシアは魔導書を開き、冷徹な筆致で記録を更新する。


【監察記録:第247号(暫定保管資料)】

戦略的分析:食糧および兵站基盤。対象施設は、二週間の観察期間中に農業生産部門を拡張し、限定的ながら食糧自給能力を獲得しつつある。収穫物の内部消費に加え、余剰分の外部供給計画を確認した。

また、宿屋運営経験者を雇用し、食事提供・生活管理部門を専門化。構成員に対し「一日三食の定時供給」を行う体制を確立した。これは、長期駐留および滞在継続性の向上を図る高度な兵站整備と判断する。

防衛体制:二週間の定点観測の結果、門番の不在日、すなわち単独警備日には侵入余地が残存することを特定。本日、内部調査を実施した。

結論:対象施設は「魔物共生型軍事・生活共同体」へ移行しつつある。特に食糧供給能力の獲得は、瘴気による焦土化・孤立化戦略に対する重大な阻害因子である。継続監視を要する。


日常の食卓を整える営みが、魔王軍の観察官の目には「強固な兵站の確立」と高度に軍事解釈されていく。


ノクシアは、確実に巨大な「組織」へと変貌しつつある「聖域」の姿に戦慄を覚えながら、闇の中へ消えた。

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