第47話 毛並みは安心で整います
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朝のルミナ村は、まだ夜の冷気を薄く纏っていた。俺とリコは、冒険者ギルドの重い扉を潜った。
「おはよう、モルガナさん」
カウンターの奥で、モルガナは昨日回収した「10枚の布」を前に、険しい顔で座っていた。
俺たちが近づくと、彼女はふっと表情を緩め、いつもの、損得も危険も一度に測るような鋭い視線を向けてきた。
「おはよう、ワタル。それにリコも。今朝は随分と早いじゃないか」
「ええ。昨日の件を受けて、少し警備のルールを決めたので、その報告をと思って」
俺は昨夜の夕食時に全員で話し合った内容をモルガナに伝えた。
「リコの案で巡回日誌をつけることにしました。いつ、誰が、どこを確認したか。あと、レオン君には悪いですが、公私の区別をつけるために、仕事中の魔物接触は禁止にしました」
「ほう……」
モルガナは目を細め、感心したように鼻を鳴らした。
「単なる『気をつける』じゃなく、仕組みとして穴を埋めようってわけかい。あんたらしいね、ワタル。……だが、理想は二人一組での見回りなんだろう? 現状の人数じゃ、毎晩は厳しいんじゃないのかい」
図星だった。俺が苦笑いして頷くと、モルガナは壁際に控えていた甥のキャスパーを呼び寄せた。
「10人も死んだんだ、用心に越したことはない。キャスパー、お前は村の正門を守るのが本職だが、週に3日、夜の見回りの応援に貸してやるよ。レオンに警備のイロハを教えるのも無駄じゃないだろう」
「週に、3日も……! つまり、エーリス様の安全を週の半分もお守りできるということですか!」
キャスパーが鼻息を荒くして身を乗り出すが、モルガナの拳骨が、その脳天にこつんと落ちた。
「任務は保護区の警備だよ、あんた。エーリス様の護衛だけじゃない! 夕方、仕事が終わり次第向かいな!」
***
保護区に戻ると、昼間の陽光がドッグランを穏やかに照らしていた。
警備の補強に目処が立ち、俺の心も昨日までの重圧から少しだけ解放されていた。
今日は、薬や設備ではなく、安心して体を預けられる時間を診る日だ。
ドッグランの生け垣の近く。
日向で丸くなっているフォレストキャットのリーフを呼び寄せた。
「リーフ、少し診せてくれ」
俺は膝の上にリーフを乗せ、最近新調した深緑の診療服越しにその温もりを感じながら、指先で緑の毛並みを探った。
脳裏に、保護したときの凄惨な姿が蘇る。
あの頃のリーフはパニックに陥り、自分の左前肢を、血が滲み、肉が見えるまで噛み毟り続けていた。
だが今、指先が触れるその場所には、瑞々しい新緑のような毛が密に生え揃っている。
指を沈めると、弾力のある柔らかな皮膚の感触が返ってきた。
「過剰グルーミングの再発なし。皮膚状態も良好だ。……今の環境は、リーフに合っているんだな」
俺の言葉に応えるように、リーフは満足げに目を細め、喉を深く「ごろごろ」と鳴らした。
その振動は、かつての悲鳴を上書きするように穏やかで、俺の手のひらまで心地よく震わせる。
「今日は、リーフを徹底的に綺麗にする日よ」
リコが、プロ仕様のブラシを手にやってきた。
リーフはリコの膝に移動し、とろけるような顔でブラッシングを受け始めた。ブラシが緑の毛並みに沈み込むたび、午後の光の中で金色の埃のように古い毛が舞う。リコの手つきは丁寧で、それでいて迷いがない。
「ク~ン!」
そこへ、自分が一番でないと気が済まないウィンドウルフのコロが、リコとリーフの間に無理やり鼻先を割り込ませてきた。
仰向けになり、あざとくお腹を見せて「自分も」と猛烈にアピールする。
さらに奥からは、ハニーベアのハニーが巨体を揺らして近づいてきた。
「ふんっ!」
ハニーはリコの頭の上に大きな鼻を乗せ、甘い吐息を吹きかける。
リコがもみくちゃにされながら「もう、順番だってば!」と笑い声を上げる。
平和そのものの、賑やかな「もふもふパニック」がそこにあった。
***
夕暮れ時、空が茜色に染まり始めた頃。
賑やかな時間が一段落し、リーフたちが満足して日向へ戻っていく中、リコが少しだけ照れながらブラシを差し出してきた。
「ワタル、私の背中も少しだけお願い。……日常のついでにね」
「ああ、もちろん」
かつては人間に背後を取られることを極度に恐れていた彼女が、今は当たり前のこととして、俺に背中を向ける。
仕立て屋ミリアが作った服の「逆V字」の切り込み。そこから覗く銀色の毛に、ブラシを当てる。かつて奴隷商人の鉄と脂の臭いに怯えていた彼女は、今、俺のスクラブから漂う薬草の匂いに安心しきって耳を緩ませていた。
言葉は要らなかった。流れる時間の中に、積み上げられてきた信頼だけが静かに満ちていく。
そこへ、ドォン、ドォンと騒々しい足音が近づいてきた。
「待たせたな! 『村を守る動く防波堤』、ただいま到着したぞ!」
予定通り、村での勤務を終えたキャスパーが合流したのだ。
彼はレオンを呼び寄せると、松明を掲げて、暗くなり始めた外周へと歩き出した。
「いいかレオン、夜の警備の本番はここからだ。暗闇でどこをどう『観察』すべきか、俺が実地で叩き込んでやる!」
新区画の工房予定地からは、ガルドが顔を出した。
「ワタル。明日、村から荷が届く。家族もこっちへ来るぜ。……いい毛並みが揃ってやがるな。守る価値のある場所だ」
新しい巡回表も、強力な助っ人も、すべてはこの穏やかな「寝息」を守るための仕組みだ。その温もりを噛み締めながら、俺は今日のカルテを締めくくった。
【施設管理カルテ】
警備体制:巡回記録の作成、外周確認手順を施行。
派遣受入:ギルドより門番キャスパーの「週3日、夜間の限定派遣」を受理。夕刻より合流し、夜間におけるレオンとの2名巡回および警備指導を開始。
患者経過:リーフ(保護区住民)……過剰グルーミングの再発なし。皮膚状態および毛並みは良好。ブラッシング時の接触受容性も高く、精神状態は安定している。
特記事項:明日より職人ガルド一家の本格移転を開始予定。工房稼働に合わせ、施設保守および防衛設備の強化を継続検討する。
***
深い夜の帳が下りる頃、保護区の外周にある樹木の影がわずかに揺れた。
潜入調査のため、私はいつものように保護区の外周へ忍び寄った。
「……想定外ですね」
私は魔導書を広げることなく、微かに唇を噛んだ。
昨日まで、新人警備兵のレオンは魔物との接触に絆され、巡回ルートに致命的な「空白」を生んでいた。
だが今、保護区の外周には二つの松明が揺れている。一つは新人のレオン。そしてもう一つは、これまで見たことのないほど厳格な足取りで歩く、門番のキャスパーだ。
2人は巡回表を手に、定期的に声を掛け合い、柵の継ぎ目や足跡の有無を執拗に確認している。
「ただの情緒的な集まりだと思っていましたが……短期間でこれほどの『防衛の連鎖』を構築するとは。今の状態での潜入は、リスクが大きすぎます」
昨日までそこにあったはずの「穴」が、ワタルの言う「仕組み」によって、少なくとも今夜は塞がれている。
私は影の中に沈み込み、気配を完全に消した。
「今夜はここまで。……一度、宿屋へ戻りましょう」
私の姿は、誰に気づかれることもなく、夜の森へと音もなく吸い込まれていった。
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