第46話 朝の保護区には、戻らない足跡があります
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翌朝、俺はいつものようにドッグランの回診へと向かった。
柵の向こうではコロとリーフがじゃれ合い、ハニーが穏やかに鼻を鳴らしている。
その平和な光景に安堵した直後、足元の草むらに、昨日までは確実になかったはずの「汚れ」が目に留まった。
「……これは?」
拾い上げたのは、泥と脂にまみれた粗末な布の切れ端だった。
周囲を見渡すと、さらに2枚、3枚と、柵に沿うようにして点在している。俺は背筋に嫌な汗が流れるのを感じながら、それらを拾い集めた。
最終的に俺の手元に残ったのは、10枚の布だった。
「ワタル、それ……」
駆け寄ってきたリコが、その布に鼻を近づけた瞬間、彼女の銀色の耳が激しく伏せられた。
「……これ、昨日の男たちの匂いよ。獣の脂と汗、それに錆びた鉄の臭いが染み付いてる」
リコは震える手で自分の肩を抱き、掠れた声で続けた。
「それにこの布の形……昔、私を捕まえていた奴隷商人たちが、瘴気避けに口に巻いていたものとそっくりなのだ。……でも、どうして? 昨日の見学者は5人だったのに、なんで10枚も」
昨日の見学者が立ち去った後、夜の静寂に紛れて、その倍の人数がこの場所を包囲していた。
俺は昨夜の巡回当番だったレオンに異変の有無を問うたが、彼は青ざめた顔で「異常なしだと思っていました」と答えるのが精一杯だった。
***
午前中、俺とリコは10枚の布を抱えて村のギルドへ向かった。
「10枚か……」
モルガナは差し出された布を検分し、苦々しく吐き捨てた。
「こいつはうちで扱っているような息守りマスクじゃない。汚れ仕事に慣れた輩の道具だよ。下見の倍の人数を揃えて、夜のうちに仕掛けるつもりだったんだろうね。……周辺を調べさせる、一度戻りな」
***
保護区に戻っても、俺の手は除染作業に集中できなかった。
お昼過ぎ、門番のキャスパーが息を切らせて駆け込んできた。
「ワタル! 叔母さんが至急来てくれと言っている! 森で大変なことが起きたんだ!」
再び訪れたギルドで、モルガナが重い口を開いた。
「瘴気の森に入った冒険者が、10人の男の遺体を見つけたよ」
その場に沈黙が降りた。
「男たちは、以前コロを傷つけたものと同型の違法な生け捕り用罠や、魔力封じの縄を持っていた。遺体の数と、あんたが拾った布の枚数は一致している。……奴らは間違いなく、昨夜、保護区を襲うつもりだった」
10人の死。
相手が密猟者だったとしても、その数字を軽く受け止めることはできなかった。助かった、という安堵よりも先に、説明のつかない重苦しさが胸に沈殿した。
「……どうして、彼らは森へ? 保護区の入り口は、目の前だったはずなのに」
俺の問いに、モルガナは窓の外を見つめた。
「誰かが止めたのか。それとも、何かに惑わされたのか。……どちらにせよ、あんたたちは何も知らないまま助かっていたんだ」
モルガナは俺の複雑な表情を見て付け加えた。
「同情するなとは言わない。だがねワタル、あいつらが生きて柵の内側に入っていたら、リコや魔物たちは今ごろ連れ去られていたかもしれない。それが現実だ」
モルガナは、釘を刺すように俺を見て言い含めた。
「これで終わりとは限らない。警備は念入りにしな。自分たちの場所は、自分たちで守るしかないんだよ」
「わかりました」
俺はモルガナに頭を下げた。
***
保護区に戻り、俺たちはダイニングに集まった。
俺はギルドで聞いてきたことを説明した。
エーリスは話を聞いて下を向いた。
「10人も……。悪人であったとしても、命が失われたことを喜ぶことはできませんわ」
「そうですね。10人が死んだことを、軽く扱うつもりはありません。でも、もし彼らが柵の内側に入っていたら、今こうして話すこともできなかったかもしれない。これで終わりとは限りません。警備を、最初から作り直しましょう」
俺の言葉を聞いて、レオンが、耐えきれずに椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「すみませんでした! 俺が……パトロール中に、コロを構ってしまいました。そのあと慌てて次の場所へ向かったから、周囲の確認が疎かになって……俺の甘さが、みんなを殺しかけたんです!」
自責に震えるレオンを、俺は責めることができなかった。
「レオン君だけの責任じゃない。誰か一人の根性に頼る管理は、医療でも警備でもないんだ」
「レオン。謝るだけで終わらせてはダメなのだ」
リコは帳簿を閉じ、まっすぐに言った。
「次に同じことが起きないように、記録に残す。ここでは、失敗も運営資料なのだ」
俺は全員の顔を見渡した。
「今回は、運が良かった。でも、次は運に頼るわけにはいかない。仕組みを作り直そう」
「規則として決めておくことが大切ですわ」
エーリスが静かに提案した。
「巡回中の住民魔物との接触禁止は徹底しましょう」
「夜間の巡回表も必要」
リコも、毅然とした顔でペンを走らせる。
「誰が、どこを、何時に見たか。柵の外側の足跡確認も含めて、すべて記録する。人手が足りない間は、特に危険な時期だけ2名体制にする工夫も必要なのだ」
誰が彼らを止めたのか。その答えを知る術を、俺たちは持たない。
ただ、目に見えない何かに救われたこの平穏を、次こそは自分たちの「仕組み」で守り抜く。その決意を、俺は新しいカルテに刻んだ。
【施設管理カルテ】
警備記録:ドッグラン外周にて、粗末な瘴気避け布10枚を回収。ギルドより、近隣森にて密猟組織と推定される男10名の死亡報告あり。所持品の生け捕り用罠および魔力封じ縄から、保護区への組織的侵入計画があったと判断。
人的管理:レオン(警備見習い)……夜間巡回中、住民魔物との私的接触により警戒空白を生じさせた可能性を自己申告。警備手順の再構築および再教育を実施。
警備改善:巡回中の住民魔物との接触禁止を明文化。巡回記録の作成、外周足跡確認地点の設定、柵外側の目視確認を義務化。人手不足を考慮しつつ、危険度の高い期間については一時的な2名体制を検討する。
特記事項:侵入者が保護区目前で自ら高濃度汚染地帯へ移動した経緯は依然として不明。原因究明は保留とし、現時点では物理的な防壁強化と警備手順の厳格化を最優先とする。
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