第45話 報告書には、守ったとは書けません
保護区の除染作業は、今や日課となっていた。
密閉受け槽から汲み出した浄化排水を土に撒き、仕上げをプルとプルツーに任せる。
かつては一歩踏み込むのも躊躇われた黒い土が、少しずつ、けれど確実にふかふかとした茶色の輝きを取り戻していく。
「……よし、この辺りもだいぶ良くなったな」
俺がマスク越しに呟くと、5人の男たちがこちらへ近づいてくるのが見えた。
「失礼。ここが、魔物を殺さずに診ているという例の診療所か?」
先頭の男が愛想笑いを浮かべて問いかけてきた。見学を希望しているという。
魔物との共生の理念を広めるのは、この保護区を維持していくためにも必要なことだ。俺は快く彼らを案内することにした。
だが、隣にいたリコが、不自然なほど身体を強張らせていることに気づいた。彼女の銀色の耳は警戒に伏せられ、鼻が微かに、けれど鋭く動いている。
「リコ、どうした?」
「……ワタル、この人たち……」
リコは声を潜め、俺の背後に半歩隠れた。男たちの一人が、リコの耳を見た。次に尻尾を見た。最後に、値札のない商品を測るように、頭から足元まで視線を下ろした。
「知っている匂いじゃない。けど、似てるのだ。獣の脂、鉄、古い革、乾いた血……」
リコは強い不快感を露わにし、足早に新棟へと下がっていった。男たちはリコの後姿を舐めまわすように見つめていた。
「……今日は、少し調子が悪いようです。俺が説明します」
俺はリハビリが終わった魔物が3匹いて、ドッグランで生活していることを話した。
男たちを観察すると、彼らは俺の共生についての説明には全く興味を示していなかった。その視線は、ドッグランで穏やかに過ごすコロやリーフを執拗に追い、まるでその肉付きや毛並みを品定めしているかのように、冷淡に這い回っていた。
この男たちはおかしい。
理念を広める必要はある。だが、リコの反応を見ても、これ以上奥へ入れるべきではない。
俺は案内する場所をドッグランの柵の外までに限り、説明を早々に切り上げた。
「案内はここまででよろしいですか?」
男たちは「ああ、十分だ」と下卑た笑みを浮かべて頷き、連れ立って村の方へと歩いていった。
彼らの背中を見送りながら、俺は胸の内に拭い去れない嫌な予感を抱いていた。
***
午後は、ガルドと共にサンダーラビットのライの治療方針を検討した。
ライは、依然として神経過敏による放電を繰り返している。
「まだ落ち着かないな。これだと他の魔物を近くに置くのにまだリスクがある」
ガルドが低く呟いた。
俺は頷き、試作中の導魔ハーネスを手に取った。
「だからこそ、安全な管理が必要です。ガルドさん、これは放電を閉じ込める道具ではありません。患者の負担を減らし、周囲へ飛ばさないための『逃げ道』なんです」
神経が悲鳴を上げたときに漏れ出す電撃を、ハーネスを通じて安全な場所へ逃がしてやる。
それが、この子がこの保護区で安心して過ごすための、今の俺たちにできる精一杯の医療だった。
***
夜。静寂が支配するドッグランの外周を、レオンが一人、松明を持って巡回していた。
「おっと……コロ。またお前か」
柵の前で、コロが「く~ん」と高い声を上げ、腹を見せて転がっていた。
「パトロール中なんだぞ……あー、少しだけだ」
レオンは誘惑に負け、数分間だけ警備の手を止めて柵の間からコロを撫で回した。
あざとい営業に絆された彼の意識から、周囲への警戒が完全に消失する。
ハッとして我に返ったレオンは、遅れを取り戻そうと慌てて次の巡回地点へ駆け出した。
【施設管理カルテ】
不審者の来訪:日中、不審な5名が来訪。共同運営者リコより、臭気および態度に不審点ありとの進言。周辺警戒を継続。
患者経過:サンダーラビット(ライ):放電管理のための「導魔ハーネス」適合試験を継続。
***
松明の明かりが遠ざかるのを待っていた者たちがいた。
10人の男たちが、闇の中から音もなく現れる。
「あの時はよくも嘘で脅しやがったな」
「昼見たところじゃ、狼も猫も人に慣れきってる」
「なら、まずは魔物を拉致する。その後に、あの銀狼族の娘だ」
闇に響くのは、かつてワタルにハッタリで追い払われた奴隷商人と、午前中に見学客を装って下見に来た男たち、その仲間の醜い復讐の囁きだった。男たちは瘴気除けの粗末な布を口元に巻いている。
男たちがドッグランに近づいたその時、近くの木陰が微かに揺れた。
***
夜間のパトロールの隙をついて、私は今晩もこの保護区の情報収集に忍び込んでいた。
男たちがドッグランに近づく。私は魔導書を開き、淡々とペンを走らせようとする。
『外部密猟者、10名。捕獲網、魔力封じの縄。粗末な瘴気避けの布――』
そこまでは、いつもの監察だった。
だが、ふと柵の向こうへ目をやったとき、私のペンは止まった。
月明かりの下で、何の疑いもなく腹を出して眠るコロ。丸くなるリーフ、穏やかなハニー。
(……あの男たちは、この光景を壊す)
そう感じた瞬間、私の影が動いた。
『――影誘い』
闇が墨を落としたように広がり、男たちの感覚を狂わせる。
「いたぞ! 銀狼族だ!」
「雷兎も逃げたぞ、あっちだ!」
男たちの視界には、柵の外へ逃げ出す獲物の幻覚が映っていた。彼らは自らの欲望に突き動かされ、本来の目的を忘れて森の奥へと走り出す。
私の影が、彼らの鼻先を撫でた。呼吸を守っていた粗末な布が、急に泥水を吸ったように重苦しく感じられる。
「くそ、布が邪魔だ! 匂いが追えねえ!」
男たちは自らマスクを脱ぎ捨て、幻影を追って瘴気の濃い森の深淵へと消えていった。
静寂が戻ったドッグランの縁で、私は震える手で再び魔導書を開いた。
文字を書く。感情を排した、軍人としての硬い文体で。
『外部密猟者、瘴気の森へ移動。対象拠点への被害なし』
そこまで書いて、ペンが止まった。
なぜ、私は彼らを止めたのか。その問いへの答えだけは、報告書のどこにも、そして自分の心にさえも、まだ書くことはできなかった。
【監察記録:第246号(暫定保管資料)】
緊急介入事案:
事象:外部勢力(推定:密猟組織10名)による拠点の襲撃計画を確認。対象は住民魔物の略奪および構成員の拘束。
処理:「影誘い」による緊急排除。
所見:本介入は、観察対象の毀損を防ぐための実務的判断である。
特記:報告書に「守った」という語を用いることは不適切。侵入者は、自らの欲望に従い、高濃度汚染地帯へ進入。結果として自滅した。以上。
……それ以上は、記録しない。




