第36話 保護区の夜は門番が守ります
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石工棟梁ロッカの手によって完成したばかりの、二階建ての診療所新棟。
その前では、朝から威勢のいい声が響き渡っていた。
「いいか、そっちはぶつけるなよ! そこはエーリス様の寝室に置く大事な棚なんだからな!」
エーリスが私物の搬入のために雇った人夫たちに混じり、門番のキャスパーが現場監督さながらに差配していた。
それだけではない。
彼は「門番の筋力を見せる絶好の機会!」と鼻息を荒くし、重いクローゼットを一人で抱え上げて運んでいた。
それを見ていたリコが、廊下の端で冷ややかな声をかける。
「キャスパー。また腰を鳴らしても知らないのだ」
「ふん、心配無用だ! 今の俺は、エーリス様をお守りするという使命感で満ちあふれているんだ!」
キャスパーは顔面を紅潮させながらも、なんとか荷物を運び入れた。
***
搬入が一段落した昼下がり。一階の清潔なダイニングに、俺とリコ、エーリス、そして役目を終えて誇らしげなキャスパーの四人が集まった。
「……リコさん、そのお洋服、本当によくお似合いですわ! 若草色があなたの銀色の毛並みに映えて、まるで春の妖精のようです」
お茶を淹れていたエーリスが、リコの新しい装いに気づいて感嘆の声を漏らした。仕立て屋ミリアがリコの身体に合わせて作った一着だ。
「えっ、あ、ありがとう……。ミリアさんが、『体を服に合わせるな』って言って作ってくれたのだ。耳も尻尾も、どこも引きつれなくて……初めての自分のための服」
リコは照れくさそうに、しかし嬉しそうに尻尾を揺らした。
「素晴らしい決断ですわ。服は心と体の安定を守るもの。あなたが心地よく過ごせることは、この診療所の運営にとっても大切なことです」
エーリスは深く頷くと、居住を始めるにあたっての「ルール」を切り出した。
「リコさん、今後の生活費についてですが。お世話になる以上、わたくしは自立した治癒士として、一定額を毎月支払わせていただきたいのです」
「でも、エーリスさんにはここで魔法回路の保守もお願いするし……」
リコが迷いを見せると、エーリスは凛とした表情で首を振った。
「仕事と生活は別ですわ。マスク制作でも取り分がありますし。わたくしは対等なパートナーとしてここにいたいのです」
会計担当であるリコの瞳に、プロとしての光が宿った。
彼女は帳簿を広げ、食費、照明油、薪、洗濯布、さらにはエーリスが使う薬草棚のスペース分までを厳密に計算し始めた。
「……わかった。じゃあ、不公平にならないよう、この金額を定額負担として決める。いい?」
「ええ、喜んで。ありがとうございます」
二人の間で、組織を維持するための明確なルールが確立された。そのやり取りを見ていた俺は、「なんだか病院のスタッフ宿舎のようになってきたな」と、保護区の確かな成長を実感していた。
一方、輪の外で羨ましそうにしていたキャスパーが、悔しげに拳を握った。
「……俺は門番の職務があるから、ここに泊まるわけにはいかないのが恨めしい。だが、エーリス様! ご安心ください。夜間、あなたが安心してお休みになれるよう、俺は毎晩この敷地内をパトロールすると誓います!」
「まあ、キャスパーさん。そこまで……。本当にありがとうございます」
エーリスの純粋な感謝の言葉に、キャスパーは天にものぼる心地で舞い上がっていた。
***
お茶の時間を終えた後、俺とリコは午後の定例作業に取りかかった。
「リコ、今日も密閉受け槽の浄化排水を使って除染を進めるぞ」
俺たちはマスクを装着し、密閉受け槽から浄化排水を汲み出した。これを敷地の境界付近の黒ずんだ土に撒いていく。
密閉受け槽で浄化されたこの水は、大地を洗う洗浄剤として機能する。俺たちが水を撒き、プルとプルツーが仕上げに這う。この地道な作業の積み重ねが、患者たちが安らかに過ごせる場所を作り出していくのだ。
今日の浄化作業を終えた後、そのままドッグランの回診へ向かった。
ウィンドウルフのコロは決められた距離を快走し、フォレストキャットのリーフは陽光の下で眠っている。隔離処置室のハニーベアも、深く穏やかな寝息を立てていた。
建物に荷物が増え、人の出入りが増えても、彼らの呼吸は乱れていない。この場所が機能していることを、俺は改めて確信した。
***
その日の夕食。テーブルには農家マルタから届いたばかりの新鮮な野菜を使った、リコ特製のスープが並んだ。
「本当に、ここのお食事は美味しいですわ」
エーリスの称賛にリコが微笑む。食事をしながら、俺たちは今後の設備――水場の拡張や夜間灯、見学者用の柵など、必要な施設について話し合った。
【施設管理カルテ:環境定着フェーズ】
人的管理:治癒士エーリスの居住区移転を完了。生活費受領による共同生活ルールを確立。
生活環境:リコの身体適合服について、作業効率および心理的安定への効果を確認。マルタ農園からの野菜供給により食生活が改善。
警備体制:門番キャスパーによる夜間巡回を開始。
患者経過:コロ、リーフ、ハニー、いずれも良好な経過を維持。
特記事項:密閉受け槽の浄化排水を用いた敷地除染を定例化。生活基盤の整備が、患者区画の安全確保にも寄与している。
***
同じ頃、保護区の外周。
松明を片手にパトロールを行っていたキャスパーは、闇の中に動く人影を捉えた。
「……誰だ!」
立ちはだかった先にいたのは、ノクシアだった。
「ノクシアさん? こんな時間にどうしたんだ」
「……夜露草を少し。夜にしか香りが立たないものもありますので」
ノクシアは無表情で答えるが、その視線は新棟の様子を窺っている。
「そうか。だが、ここから先は患者区画だ。夜間はワタルの許可がない者を立ち入らせるなと言われている。エーリス様もここでお休みになっている。引き返してくれ」
キャスパーの目は真剣だった。彼は規則を、そして想い人の安眠を守る門番としてそこに立っていた。
「……そうですか。規則であれば、仕方がありませんね」
ノクシアは追及を断念し、闇の中へと消えていった。
***
宿へ戻る道すがら、私は苦々しく報告書を更新した。
(ただの門番。……そのはずなのに、彼は私の前に、拠点の規則そのものとして立ちはだかった)
この場所は、管理者の能力だけでなく、確立された「規則の壁」によって守られ始めている。その事実に、私は静かな戦慄を覚えていた。
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