第30話 鼻の奥の霧を洗い流します
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私は再びルミナ村に戻ってきた。
保護区の門を越えた瞬間、肺の奥に、あの不快な清涼感が戻ってきた。夜魔族である私には薄すぎる空気。だが、魔物たちはその空気の中で、深く眠っている。
「そこでは、私たちも怯えずに息ができるのかしら」
母リュシアの言葉が頭をよぎり、私は首を左右に振った。
この保護区へ戻るのは、一週間ぶりだった。穏やかな雰囲気は変わらない。しかし、明らかに施設は変わっていた。
この前まで家畜小屋がぽつんと立っていたのに、井戸の脇には巨大なタンク、建物から敷地の外れまで続く石造りの排水管が見える。
「あれは一体?」
立ちすくんでいると、管理者のワタルが私を見て近づいてきた。
「お久しぶりです。ノクシアさん。しばらく顔を見なかったですね」
「はい。薬草の仕入れをしていたので」
私はそう言って母から譲ってもらった薬草をワタルに見せた。
「エーリスさんも、ノクシアさんの薬草は、希少品や品質がいいものが多いって褒めていましたよ。この辺りのものではないからかもしれませんね」
「そうですね。私は野生の薬草も使いますが、プロが育てた薬草も使っていますので。ところで、ワタルさん。しばらく見ない間にずいぶん見た目が変わったというか」
「そうですか」
ワタルは自分の着ている服を見まわした。そのくたびれたスクラブには特に変わりはない。
「違います。建物の方。なにか巨大なものができていたり……」
ワタルは恥ずかしそうに自分の服からタンクに目線を移した。
「あれですね。ハニーベアの治療に必要な水を確保するために作りました。また、汚染水も敷地の外れに設置した密閉受け槽で浄化できるようにしてあります」
そう言って、ワタルは敷地の外れを見た。そちらにもタンクのようなものがある。
「井戸から自動で汲み上げるシステムにできたので、これでずいぶん助かります」
ワタルはこともなげに言った。
自動で井戸水を汲み上げ、汚染を隔離し、清浄水を供給し、汚染排水を回収する。
それは小屋ではなかった。「防疫施設」だった。
「でも、こんなに大きな設備を回すのに、プルとプルツーで浄化するのは大変そうですね」
私の言葉を聞いて、ワタルはにこりと笑った。
「プルとプルツーに負担をかけないように、あの子たちはこの浄化に直接関わらない仕組みにしています」
「えっ?」
「タンクの中に魔法の回路を入れていて、それで浄化の性質を水全体へ広げるんです。誰か一体に負担を押しつけるやり方では、治療は続けられませんから」
私は驚いた。魔王軍では魔王以外はすべて駒として利用される。そして使い道がなくなったと判断されれば切り捨てられる。でも、この拠点では、だれか個人に頼るようなやり方をしないということか。
「兵站拠点」としての実質がますます高くなっていることを感じ、私は愕然とした。
「そうはいっても、水の清浄化には6時間はかかるんです。これから、清浄化が成功したかの報告をしますので、ノクシアさんも一緒にどうぞ。」
ワタルはそう言って、井戸の脇のタンクに向かった。
私はしばらく動けなかった。耳の奥で獣王ガウルの笑い声が聞こえる。この施設の恐ろしさを何も理解していない。私は強く右手を握りしめた。
***
しばらくして、タンクの方に向かうと、すでに村長ゴランとその息子アルノ、ロッカ、ガルド、エーリス、リコが集まって話していた。
「ノクシアさん。お久しぶりです」
エーリスが微笑んで挨拶してきた。私は軽く頭を下げた。
リコは相変わらず私に警戒を解かない。耳をぴんと立てて私と距離を置いている。
ワタルは一同を見渡した。
「それでは報告します。昨晩、運転から6時間後の水を確認したところ、瘴気反応は陰性、さらに1時間後の水も陰性のままでした」
一同から安堵のような声が漏れた。昨日は失敗していたのだろうか。
「そして、6時間前に動かした水を今から出します。これが陰性であれば成功したと言ってよいと思います」
ワタルはそう言って、給水バルブを開けてバケツに水を出した。透明な水が大量に流れ出る。以前、ひしゃくで少しずつ使っていた時とは大きく違っている。
ワタルは鋭い目つきでバケツの中の水を確認した。
「陰性です。問題ありません」
「良かったです。では次に排水の方を見せてください。村の土や水筋を汚染させるわけにはいきません」
アルノが記録板から目を離さずに言った。ゴランはその横で頷いている。
「わかりました。そうしたら処置室の方で実際に排水を流します」
ワタルはバケツを持って建物の中へ入っていった。他の人たちはそれについていった。私は井戸の脇の巨大なタンクを見た。
どれくらいの水を浄化できるのだろう。これが実際に動くとなると、水の不安はなくなりそうだ。私は地図上の白い点を思い出していた。
***
私が建物の中に入ると、それを確認してワタルが言った。
「このまま流して排水を確認するのもいいですが、清浄水を確保できたので、併せてハニーの治療を行います。リコ、すまないが、タンクからバケツもう一杯分水を持ってきてもらえるか」
「うん、わかったのだ」
リコが空のバケツを持って、建物から出ていった。
「この処置室は、ロッカさんとガルドさんに作ってもらいました」
それまでただの古い家畜小屋だったものが、石の板が床に敷き詰められ、その上にがっしりとした石の処置台が置かれている。
処置台の下には浅い溝が切られ、その先が石の排水管へつながっている。流した水は床に落ちず、そのまま外へ送られる仕組みらしい。
「ハニーを処置台に乗せます。ロッカさん、お弟子さんの力を借りていいですか?」
「おう」
寝ているハニーを担架に乗せ、ロッカの弟子たちが何人もかかって処置台へ移した。革帯がきしみ、弟子たちの額に汗が浮く。
処置のたびにこれだけの人員を要するなら、この施設はまだ大型個体の継続処置に最適化されていない。
「ハニーは鼻の奥に瘴気をため込んでいて、これが原因で嗅覚が働かなくなっています。治療としては、まず対症療法です。清浄水で洗い、炎症と詰まりを少しずつ減らしていきます」
ワタルはそう言って、バケツから水をひしゃくで汲み上げ、ゆっくりとハニーの鼻に水をかけた。最初の一杯が鼻先を濡らしただけで、ハニーの肩がびくりと揺れた。
ワタルは慌てない。耳の動き、前肢の力、呼吸の間隔を見てから、二杯目をさらにゆっくり流した。
鼻孔の奥から、灰色に濁った水が押し出される。膿に似た濁りが、石の溝へ落ちた。
私は息を呑んだ。魔王軍なら、これは「狂暴化の残滓」と呼ばれる。けれどワタルは、それをただの汚れとして洗い流していた。
ロッカは排水管を確認し、水滴一つついていないことを確認して満足そうにうなずいた。
バケツ2杯分を使い切るころ、ハニーの呼吸音は、まだ濁ってはいたが、最初よりわずかに細く、通る音に変わっていた。
ワタルはそれ以上は流さなかった。
「今日はここまでです。一度に洗いすぎると、かえって負担になります。通り道は少しできましたが、奥の炎症はまだ残っています」
ハニーベアは、担架で元の場所へ戻された。
「それでは、最後になりますが、排水の処理について確認しましょう」
ワタルが残った水を流して処置台をきれいにしてからそう言った。
***
私たちは敷地の外れにきた。そこには石の排水管に接続された密閉受け槽があった。
「処置台から流れた排水はここに溜まります。そして、浄化を行うことになります。浄化システムは、タンクと同様です」
「なるほど」
ゴランが頷いた。
「ですが、ワタル先生、この密閉受け槽で浄化した排水はどうするつもりですか?」
ゴランの横でアルノがワタルに尋ねた。
「はい。私が責任をもって瘴気反応が陰性であることを確認した上で、村から離れた森の外縁に少量ずつ撒こうと思っています」
「森に撒く?」
アルノの記録をする手が止まった。
「はい。瘴気反応が陰性であることを確認した水だけを、森の外縁に少量ずつ戻します。森そのものは、今の排水よりずっと濃い瘴気に覆われています。だから、陰性を確認した水を少量戻すこと自体は、森を悪化させるものではありません。ただし、村側の水筋に戻る場所へ流すわけにはいきません。撒く場所と量は記録します」
アルノはしばらく記録板を見つめ、それから父を見た。
「父さん。試験区画を決めて、量と時間を記録するなら、私は許可してもいいと思います。ただし、村の井戸筋からは外してください」
ゴランは息子の言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「そうじゃな。森に戻すなら構わん。ただし、村へ戻る流れにだけは乗せるな。そこは約束してもらうぞ」
「ワタル先生。記録は私の方でも残します。そちらでも、撒いた場所と量を控えておいてください」
ワタルは頷いた。それを見て満足そうな顔になったゴランは、さらに目つきを緩めていった。
「あと、ワタル先生。あんたらの居場所が元の家畜小屋のままだと大変じゃろう。ロッカに頼んで、ワタル先生の部屋と、リコさんの部屋、それから診察室をきちんと作ってもらうことも考えてみてはどうじゃ?」
「建物に手を入れてもいいのですか?」
「何を言ってる。もう十分手を入れてきたじゃろ。でも、これまでは患者のことばかりだったから、自分たちの生活も少し考えるといいと思うぞ」
「ありがとうございます」
ワタルが礼を言うより先に、リコがはっきりした声でそう言って、深々と頭を下げた。
「リコさんか。あんたが頑張っているのもわかる。これからもワタル先生の力になってやってくれ」
「はい」
***
私は、彼らのやり取りを見ていて震えが止まらなかった。
この施設は、個人の力に頼らず運営されており、しかも村公認の施設になっている。「瘴気戦略阻害因子」として、非常に問題のある存在だ。
頭の中で魔導書を開き、報告書の内容を整理した。
『監察記録:第243号(暫定保管資料)』
対象拠点は、個体依存型の浄化から、設備化された循環浄化へ移行。
大型魔物用隔離処置室を獲得し、膿・汚染排水の外部流出を防ぐ構造を確認。
医療判断、魔法回路保守、物資管理、設備点検、石工保守の分担が成立しつつある。
村長ゴラン立ち会いのもと、井戸水・排水・放流手順が管理対象となった。
村長家次代と思われるアルノが記録担当として関与。対象拠点と村行政との接続を確認。
これは、単独の異常者による奇行ではない。組織である。
脅威度、再評価を要する。
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