第26話 報告書には、夢と書けません
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四天王の一人、獣王ガウルの居城は、常に肺を刺すような濃厚な瘴気と、強者の傲慢な気配に満ちている。
私はその獣臭い瘴気に沈む玉座の前で膝をつき、ルミナ村の調査について中間報告を行っていた。
「……対象拠点の管理者は、瘴気を『物理的な汚染』として定義し、洗浄・排水する仕組みを構築。さらには村長と契約を結び、家畜小屋を石造りの強固な施設へと改築し始めました。もはやここは単なる診療所ではなく、瘴気戦略を無効化する『防疫牢』として機能しつつあります」
玉座に深く腰掛けたガウルは、退屈そうに私の言葉を遮った。
「防疫牢だと? ふん、大層な名をつけたものだ。ノクシア、その拠点に配備されている軍事力はどの程度だ。王都の騎士団か、それとも魔導師の隠密部隊でも潜ませているのか?」
「いえ……。定住しているのは、武器を持たぬ人間一人、獣人の娘一人、そして最下級魔物のスライムが二匹です」
一瞬の静寂の後、ガウルは椅子を鳴らして激しく嘲笑した。その笑いは、玉座の間の瘴気を必要以上に震わせるほど大きかった。
「ククク、ハハハハ! たったそれだけの雑魚が、我が軍の脅威になるだと? 腹を空かせた獣人に、塵芥同然のスライムだと? 牙も爪も持たぬ人間が、瘴気を『管理』するなど、自然の摂理に反する滑稽な妄想だ」
ガウルは私の報告を「一時の悪あがき」と断じ、取り合おうとしなかった。
彼にとって瘴気とは恐怖と服従の源であり、人間がそれを「診断」し、洗い流せるものとして扱うこと自体が許しがたい幻想なのだ。
「その診療所の底の浅さを見極めてこい。真実などどうでもよい、次こそは戦いに役立つ情報を持ってこい」
私は静かに頭を下げ、影の中に退いた。
私の見た真実が、軍の論理によって「存在しないもの」として切り捨てられていく。
その拭い去れない違和感を抱えたまま、私は城下の退役観察官居住区へと足を向けた。
***
退役観察官居住区。
そこは静かだが、常にどこかから冷徹な憲兵の視線を感じる閉塞した場所だった。
実家の扉を開けると、私と同じ黒紫色の髪を小さく結った母が、安堵と不安の入り混じった表情で駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、ノクシア。……無事でよかったわ」
母のリュシアは私の肩に手を置き、汚れを払うようにしながら、声を潜めて耳元で囁いた。
「最近、この辺りを憲兵たちが聞き回っているの。あなたの任務に障りがないか、そればかり案じていたのよ……」
母の手は微かに震えていた。ここは家ではない。魔王軍の監視下にある「逃げられない檻」なのだ。
奥の部屋では、元観察官である父のオルフェンが、手垢で汚れた古い魔獣図鑑から目を上げ、静かに私を迎えた。
「……ガウル様への報告はどうだった、ノクシア」
母が淹れてくれた、重苦しい色の茶をすすりながら、私は公式報告には決して書けなかった「保護区の光景」を二人に話した。
スライムのプルたちが楽しそうに土を浄化していること。そして、人を傷つけてしまったハニーベアでさえ、殺されず、痛みの原因を取り除くために眠らされていること。
話を聞いていた母が、窓の外の淀んだ瘴気を見つめ、溜息をついた。
「……そんなに綺麗な空気が、この世界のどこかにあるなんて。そこでは、私たちも怯えずに息ができるのかしら」
母のその一言に、父が静かに図鑑を閉じた。
「浄化をするスライムなど聞いたことがないが……。瘴気を管理し、魔物を生き物に戻す、か。それは魔王軍にとっては悪夢だが、魔物にとっては、そこはまさに夢のような場所だな」
だが、父の眼光は厳しかった。
「ノクシア。観察官がいちばん危うくなるのは、見たものを、軍の望む言葉に直せなくなった時だ。お前が真実を報告し続ければ、軍はいずれお前を疑う。そして、その疑いはお前だけで止まらない。ここにいる私や母さんも、連座の対象となるだろう」
父の視線は、私の隣で俯く母に向けられた。
私が「真実」を選べば、この二人は人質となり、見せしめとなる。魔王軍の残酷な管理体制が、私たちの絆を「鎖」に変えていた。
***
その夜。かつて自分が使っていた部屋のベッドに横たわり、私は重苦しい天井を見つめていた。
ふと、枕元の棚の隅に、埃を被った一冊の古いノートがあるのが目に留まった。
手を伸ばしてそれを開き、私は息を呑んだ。それは、まだ幼かった私が、父の背中を追っていた頃に描いた「観察日記」だった。
『魔物を生き物として見たい。いつか、魔物たちが怯えず、楽しく過ごせる世の中を記録したい』
(……忘れていた。私は、こんな夢を持っていたのか)
いつからだろうか。
観察を「戦力評価」として行い、記録を「軍事報告」として書くことが当たり前になってしまったのは。
私は自分の原点――「魔物を兵器ではなく生き物として見て、魔物たちが怯えず過ごせる世の中を記録したい」という純粋な願いを、深い闇の底に埋めていた。
だが、ルミナ村の白い空気の中では、私の埋めていた夢が、現実の形をして息づいている。
「……夢、か」
逃げる、という言葉を、私はまだ自分に許していない。
それでも、あの白い空気の中で、父と母が咳き込まずに息をし、魔物たちがただ楽しく過ごしている光景を、一瞬だけ想像してしまった。
その憧れの大きさに、胸が痛いほど脈打った。報告書には、夢と書けない。けれど私は、その夜、夢を見てしまった。
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