第24話 見えない霧がその鼻を塞いでいます
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「こっちだ」
石工棟梁のロッカに続いて、ワタルとリコが走り出す。私もみんなの後を追った。
門を一歩出ると、肺の奥を洗われるようだった奇妙な清涼感が薄れた。
管理者ワタルが作り出した清浄な空気は、夜魔族である私にとってはこれまでに体験したことのないものだった。
目指す現場はルミナ村を横断した反対側の村はずれ。森との境界線にある。
村の居住区に入ると、そこには瘴気こそないものの、別の澱みが満ちていた。どの家の窓も固く閉ざされ、通りを歩く住人たちは、まるで迫りくる影を恐れるように肩を窄め、小声で囁き合っている。
だが、村の外れ、森の境界線に入った瞬間、ワタルの表情から余裕が消えた。
「……っ、鼻の奥に、金属を舐めたような味が張りついた」
ワタルが眉を寄せ、口元を覆う。そこには、鉄錆の臭いを伴う瘴気がわずかに漂っていた。
私にとっては安らぎの匂いだが、人間である彼にとっては、明らかな「毒」の味なのだろう。
だが、同時に私の鼻を突いたのは、それとは対照的な、むせ返るほどに甘く重い、花々の香りだった。瘴気がわずかにあるとしても、これだけ花が群生しているなら、蜜蜂を育て、蜂蜜を集めるのには都合が良いのかもしれない。
***
蜂蜜店へ着くと、ロッカは抉り取られた石壁へ駆け寄った。
「あそこだ! ルッカ、バルト! 無事か! テオはどこだい!!」
ロッカが蜂蜜店へ向かって叫んだ。
そこには、絶望の中で立ち尽くすロッカの妹ルッカと、その夫のバルトがいた。
ワタルは周囲の惨状と、その奥に広がる花畑を交互に見て問いかけた。
「バルトさん、ここは村の中でも特に瘴気の影響が感じられる。……なぜ、このように危険な場所に店を構えたのですか?」
バルトは震える手で、森の奥に咲く青い花を指差した。
「……あそこに咲く『星蜜草』ですよ。あの花から採れる蜜は、この地方でも最高級の香りとされる。……俺たちは、世界一の蜂蜜を作りたかったんだ。ロッカ姉さんが、魔物も通さない頑丈な石壁を築いてくれたから、ここなら安全だと思ったんだ……!」
最高級の香りを求めて、瘴気の漂う境界線に挑む。それは、職人としての誇りと、ロッカの技術への絶対的な信頼があったからこそ成立していた平穏だった。
だが、今、その信頼の証である石壁は無残に砕かれている。
ワタルは散乱した蜂蜜の壺を一つ拾い上げ、中身が手付かずであることを確認した。
「ワタル先生! 早く、早くあの子を止めてくれ!」
ワタルはバルトに問いかけた。
「バルトさん、落ち着いて教えてください。暴れ出す前に、何か変わった様子はありませんでしたか?」
「鼻だ。ずっと鼻を地面に擦りつけてた。呼んでもこっちを見なくなって……それから急に壁を壊し始めた」
その証言を聞き、ワタルは深々と頷いた。
「……蜂蜜を無視し、壁ばかりを攻撃している。やはり食欲じゃない。嗅覚を失い、出口のない暗闇にいるんだ」
私は、ハニーベアを見つめた。四つ足のままでも大人の腰を越す程度で、立ち上がれば人間の男より少し高いくらいだ。だが、丸太のような前肢と湾曲した爪は、石壁を何度も叩き砕くには十分だった。
その時、建物の影から10歳ほどの少年、テオが飛び出した。
「ハニー! 落ち着けよ、オレだよ! いつもみたいに遊ぼうぜ!」
地面に鼻を打ち付けて喘いでいるハニーベアに、テオが歩み寄る。
「テオ、待ちな! 今は危ない!!」
両親の制止を振り切り、テオは一歩踏み込んだ。
「大丈夫だよ、こいつはオレのこと知ってるから!」
テオが、もう一歩近づいた。
ハニーベアが、弾かれたように顔を上げた。
だが、今のハニーベアにとって世界は「暗闇」だった。瘴気による鼻腔の激痛と、情報の遮断。目の前の少年は、もはや「友人」ではなく、暗闇から自分を襲う正体不明の「障害物」でしかなかった。
「フシュゥゥッ!!」
反射的に突き出された太い前肢が、テオを弾き飛ばした。テオの腕はハニーベアの鋭い爪に切り裂かれ、鮮血が飛び散る。
「テオ!!」
悲鳴を背に、ワタルは即座にテオとハニーベアの間へ滑り込み、片腕を広げた。
「傷口を押さえて! 布で圧迫してください。腕を心臓より高く。リコ、テオ君を壁の陰へ!」
リコがテオを引き寄せる。
「……蜂蜜を無視し、建造物を反復攻撃し、自傷し、そして――馴染みの人間さえ認識できない。診えた」
ワタルの眼が、ハニーベアの全身を診るように走った。
「瘴気による鼻腔粘膜の激しい腫脹。副鼻腔の内圧上昇。……この子にとって、匂いは人間の目と同じなんです。今は突然、世界が真っ暗になったようなものだ。そこにこの激痛だ、狂わない方がおかしい」
ハニーベアに触れることなく、体内の状況をどうして把握したのか、私には理解ができなかった。
ワタルが、ハニーベアの黒い毛の胸元に浮かぶ白い三日月を見て、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「……マレーグマ。同じことはさせない」
その呟きの意味を、私は理解できなかった。
「子供に爪を立てたって知れたら、いくらアタイが庇っても村は討伐に傾く」
ロッカは下を向いた。ワタルは振り返ってロッカに伝えた。
「ロッカさん、すぐ村へ走ってください! 治癒士のエーリスさんをここに呼んでほしいんです! テオ君の治療が必要です」
そう言って、ワタルはハニーベアを再度見た。
「あの子をここで治療するのは難しい。保護区まで搬送しなければならないので、ロッカさん、エーリスさんを呼んだ後、人手と搬送用の器具を準備して戻ってきてもらえますか?」
「わかった。子供を怪我させたなんて広まったら、討伐隊は止められない。急いで戻る。アタイに任せな!」
「お願いします」
ルッカは泣き叫ぶテオを抱きしめて、なだめていた。その間もハニーベアは壁の攻撃を続けていた。
***
駆けつけたエーリスがテオの処置を終えるのを待って、ワタルは言った。
「エーリスさん。ハニーベアの治療をここでするのは難しい。プルの浄化圏内……家畜小屋の隔離ケージへ運ぶ必要があるのですが、あの子を眠らせることはできますかね?」
「……そうですね。『魔力鎮静』を強くかければ、もしかしたら……。ミノタウロスほどの巨体だと無理だと思いますが、あの子くらいのサイズなら、短い時間であれば可能かもしれません」
「良かった。今、ロッカさんが人手を連れてきてくれるんです。だから、到着したら、試してもらってもよいですか?」
「わかりました。やってみます」
しばらく待っていると、ロッカが戻ってきた。
「待たせたな。アタイの工房の若い衆を連れてきたよ」
ハニーベアは引き続き壁を攻撃している。
「ワタル、次ならいけるのだ。息が浅くなる」
ハニーベアを観察していたリコが言った。
「今なのだ。エーリスさん、お願い」
「はい」
エーリスが『魔力鎮静』をかける。ハニーベアの動きが少しずつ遅くなり、前肢から崩れるように地面へ沈み込んだ。
その体を、ロッカの弟子たちが板に載せて担ぎ上げる。ワタルはバッグからプルツーを取り出し、ハニーベアの鼻先に配置した。
「プルツー、無理はしなくていいからね。移動中、あの子の呼吸を守ってあげて」
「ぷるっ」
***
ワタルがスライムを「可搬式の防護兵器」として運用し始めたその光景を見ながら、私は魔導書を開いた。
記すべき内容は、すでに整理できていた。
『監察記録:第241号(暫定保管資料)』
【事実経過】対象管理者は、鑑定術の補助なしに、行動観察および身体所見のみから「嗅覚障害」を特定。既知の人間に対する認識不全を、診断の決定的な根拠とした。
【軍事的懸念事項】戦略の無効化:対象は瘴気による生体障害を識別・遮断・回復させるための手法を体系化しつつある。
可搬式防護兵器の運用:最下級魔物を移動可能な防護兵器として運用。
兵站拠点化:医療、工学、人的連携により、本拠点は対瘴気戦術を支える兵站拠点としての性質を帯びつつある。
【結論】管理者個人に軍事利用の認識は認められない。だが、本人が無自覚である点こそが、技術伝播を容易にしており極めて危険である。――対象管理者の脅威度、上方修正。
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