第20話 森の境までもう一度行きます
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古い家畜小屋に、穏やかな朝が戻ってきた。
ミノタウロスの『息守りマスク』と『安全誘導ハーネス』の運用が軌道に乗ったことで、俺の毎朝の緊急往診は必要なくなった。
現場の微調整は職人のガルドが担い、定点観察は腰を痛めたキャスパーが、意地で引き受けてくれている。
窓際では水色のプルが、床下では深い青色のプルツーが、それぞれ規則正しく空気を浄化している。二重の浄化体制のおかげで、小屋の中は村の通りよりも澄み渡っていた。
「さて、コロ。朝の診察だぞ」
俺が隔離ケージを開けると、ウィンドウルフのコロが待ちきれない様子で尻尾を振った。
そこへ、一人の男が近づいてきた。村長、ゴランだ。
「……ふむ。管理状況の確認に来たぞ、ワタル先生」
ゴランはいつものように、刻まれた皺の深い、厳格な村長の仮面を崩さずに小屋へ足を踏み入れた。
だが、その視線はすでに、ケージの中の「もふもふ」に釘付けだった。
それを察したのか、コロがかつてないほどの「あざとい営業」を開始した。
ゴランの目の前でコロンと仰向けになり、前足で顔を隠すように丸まり、上目遣いで「ク~ン」と鼻を鳴らす。
ゴランの表情から、村長としての厳しさが一瞬だけ溶けた。
「……ほう、以前にも増して絹のような毛並みだな。やはりただの子犬ではないか……」
差し出された太い指は、迷うことなくコロの耳の後ろへと吸い込まれていった。コロが「くぅん」と喉を鳴らして指に頭を押し付けると、村一番の権力者は静かに、しかし熱心にマッサージを続けていた。
その隙を見計らい、リコが意を決して前に出た。彼女はギルドのモルガナから受け取った「先払い」の銀貨が入った袋を提示した。
「村長。コロとリーフの足腰を戻すために、小屋の外を囲って『屋外療養区画』を作りたいんです。このお金で資材を買いますので、設置を許可していただけませんか?」
ゴランはコロを撫でる手を止めず、厳かな声で答えた。
「……ふむ。防護柵は二重にすること。村側の道には絶対に出さないこと。騒音管理を徹底すること。それを守るなら、許可しよう。……それと、あの子が走れるだけの広さは、確保してやれ」
責任ある村長としての条件を出しつつも、その言葉には、かつてミーナを救った俺たちへの信頼と、魔物への微かな情愛が混ざっていた。
***
その後、ガルドの工房から連絡があり、俺たちは村へ向かった。ガルドが人間用の『息守りマスク』のプロトタイプを完成させたのだ。
「人間用はミノタウロス用と違って、会話の邪魔になっちゃいけねえ。気密性を保ちつつ、軽量化してみたぜ」
試作品を最初に手にとったのは、門番のキャスパーだった。
「……おお、息が苦しくない。それに、マスク特有の革の匂いもしないぞ」
キャスパーは満足げに頷いたが、声を張って門番の指示を出す真似をすると、眉を寄せた。
「ただ、大きな声を出すと少しだけ顎がずれるな。現場じゃ致命的だぜ」
「なるほど、顎の可動域への追従性が課題か。門番用なら、そこを補強する構造を叩き出してやるよ」
ガルドは意欲的にメモを取り、エーリスも肌荒れを防ぐ『組織安定化』の魔法を上書きした。
俺はこれを「新商品」としてではなく、今日の復帰試験に挑むチームの「安全装備」として全員に配布した。
***
数日後。
俺たちは全員がガルド特製のマスクを装着し、牧場主のバロウと共に、ミノタウロスが発狂した因縁の地「森の境」に立っていた。
「バロウさん、行きますよ。あくまで短時間の『めど』を立てるための試験です」
ミノタウロスが、重苦しい瘴気が漂う黒い土の上へと一歩を踏み出した。
その時だった。森の奥から吹き付ける突風と共に、想定以上の高濃度瘴気が一行を襲った。
「呼吸数上昇。瞳孔散大。……まずい、前頭部の瘴気反応が再燃している!」
『絶対診察眼』の透過図の中で、ミノタウロスの脳内を走る魔力が、赤く荒れ始める。マスクの浄化能力を上回る圧力と、かつての恐怖が重なり、ミノタウロスの目が血走った。
自傷衝動が暴発し、ハーネスがぎりぎりと悲鳴を上げる。ハーネスがなければ、次の瞬間には近くの巨木へ角を叩きつけていただろう。革帯が全身の動きを受け止め、ほんの数秒だけ、破壊への一歩を遅らせていた。
俺が撤退を判断しかけたその時、震える足で一歩前に出たのはバロウだった。
「戻ってこい! お前、覚えてるだろ! うちの娘を背に乗せて、この道を一緒に歩いたあの日を! 俺たちの牧場へ帰るんだぞ!」
その必死の叫びが、瘴気のノイズを突き抜けた。
赤く荒れていた魔力の波が、その声に呼応するように一瞬、凪いだ。
ギチギチと悲鳴を上げていたハーネスの張りが、ほんの少し緩んだ。
巨木を粉砕せんと向けられていた角の先が、ゆっくりと標的から外れる。
バロウの呼ぶ声の間隔に合わせるように、荒い呼吸が一つ、二つ、深く、穏やかになっていった。ミノタウロスの瞳から血走った色が引き、俺は小さく息を吐いた。
「……正気、確認。自傷衝動の停止を視認しました」
***
「今日証明できたのは、完全復帰ではありません」
帰り道、俺はバロウとチームの面々に告げた。
「条件を整えれば、短時間なら森の境に立てる。そこまでです。ですが、それは十分に大きな一歩です」
「ワタル先生。本当にありがとうございました。これで日常が戻ってくる気がします」
バロウは深々と頭を下げた。
「俺だけではありません。エーリスさんの魔法、ガルドさんの器具、キャスパーさんの観察記録、リコの現場判断。そして何より、バロウさんの声が必要でした。今後もしっかりミノタウロスを見てください。気になることがあれば、すぐに連絡してください」
「わかりました」
「それから、フィルターは一週間を目安に交換してください。今日みたいに森の風が強い日は、もっと早く消耗します」
「予備はどうすればいい?」
「ギルドに置いておきます。バロウさんは、そこから受け取ってください。汚れが早いと感じたら、すぐ知らせてください」
「本当に、何から何までありがとうございます」
バロウはそう言って、ミノタウロスと牧場に戻っていった。
***
キャスパーとエーリスと別れ、古い家畜小屋に戻った。リコは新しく建設されるドッグランの場所を見つめた。
「完治じゃなくても、戻れる一歩があればいいのだ」
俺は古い家畜小屋から森へと続く、まだ草に埋もれた細い道を見た。
そこをミノタウロスが歩き、いつかコロが走るなら。
この道そのものも、いつか治療の対象になるのかもしれない。そんな小さな予感を抱きながら、俺は新しいカルテにペンを走らせた。
【施設管理カルテ】
運用実績:『森の境復帰試験』を実施。高濃度瘴気曝露下において、バロウによる呼び戻しが、個体の再定位および自傷衝動の中断に有効である可能性を確認。
施設拡張:村長ゴランによる条件付き許可に基づき、『屋外療養区画』の設営を開始。
装備開発:人間用高機能呼吸保護具の実地テストを完了。発声時の顎部密閉性に課題を確認。次期モデルにて改良予定。
患者状況:ミノタウロス……バロウの呼び戻しによる行動制御を確認。限定的条件下での現場復帰可能性を確認。
特記事項:ハーネスおよび呼吸保護具は、個体の自傷行動を完全に消すものではない。環境、装備、観察者、飼い主の声を組み合わせた継続管理が必要。
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