第2話 名前がないとカルテが作れません
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翌朝。聞いたこともない奇妙な鳥の鳴き声で、俺は目を覚ました。
「……っ、痛てて。さすがに地面でそのまま寝ると背中が痛いな」
身を起こし、凝り固まった肩を回す。着の身着のまま、緑色の術衣一枚での野宿だ。昨夜は畑へ戻る余裕もなく、プルが浄化してくれた小さな地面に倒れ込むように眠ってしまったのだ。
それでも、周囲を見渡せば黒ずんだドロドロの土ばかりだというのに、俺が寝ていたこの数メートル四方だけは、ふかふかとした茶色い土とわずかな下草が広がっていた。
「よし。まずは水と食料の確保、それから現在地の特定だ」
真面目に今後のサバイバル計画を練ろうとした、その時だった。
『ぷるるっ』
足元から音が聞こえた。見下ろすと、昨日助けたスライムが俺のブーツの裾にぴたりと張り付いていた。俺は頭の中で、昨日開いた『カルテ』を思い浮かべる。
「そういえばお前、名前がないとカルテが作れないな。俺は大地渡……まあ、この世界じゃ『ワタル』でいいか」
『ぷる?』
「でお前は、ぷるぷるしてるな……『プル』でいいか?」
『ぷるるっ!』
「いや、今のは返事なのか?」
俺は思わず一人でツッコミを入れてしまった。今日からこの子の愛称は『プル』に決定だ。
名前をもらって満足したのか、プルはぽいんっと跳ねると、少し先の黒ずんだ土へと移動し、昨日と同じように黒い土をじゅうじゅうと吸収し始めた。
「朝ごはんはそれか。……便利というか、すごい食性だな」
俺が獣医としての探究心を刺激され、プルの食事風景を観察していた、その時だった。風向きが変わり、鼻腔を鉄錆のようなツンとした匂いがくすぐった。
「……血の匂い?」
獣医師としての反射で、俺は匂いの元へ走り出していた。茂みを掻き分けた先、太い木の根元に倒れ込んでいる小さな影を見つけた。
古びてボロボロになった貫頭衣。頭から生えた銀色の獣の耳と、血に塗れて力なく横たわるふさふさの尻尾。狼の獣人の少女――いや、年の頃は十代後半くらいだろうか。
「おい、大丈夫か!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間。
「……ッ! 人間ッ!! ゴホッ、ゲホォッ!! 近づいたらただでは済まさないのだ!」
彼女は必死に身をよじり、威嚇しようと睨みつけた。けれど、湿った銀色の耳は後ろへ倒れ、尻尾は腹を守るように丸まっている。唇の端から、小さな犬歯が覗いていた。
人間に対する異常なまでの恐怖と憎悪が、開ききった瞳孔と逆立った毛に表れていた。
俺はピタリと足を止め、ゆっくりと両手を上げて「敵意はない」と示した。そして、彼女の目からスッと視線を逸らし、わざとらしく小さくあくびをして見せた。
「……なっ、なんなのだ! 人が威嚇してるのに、なんであくびなんか……! ケホッ、ゲホッ!」
『カーミングシグナル』。
犬科の動物に対して「落ち着いて」と伝えるための、動物行動学に基づいた対話術だ。少なくとも、こちらの行動が予想外だったことだけは確からしい。
彼女が戸惑い、一瞬だけ唇を閉じた。俺はそこで踏み込まなかった。ここで無理に距離を詰めれば、もう二度と信用されない。
これは単なる威嚇じゃない。人間そのものへの恐怖――いや、もっと深い不信だ。
「出血している。傷を見る。嫌なら首を振ってくれ」
「……人間の、言うことなんか……聞かないのだ……」
「信用しなくていい。でも、このままだと死ぬ」
彼女は荒い息を吐いたまま、俺を睨んでいる。拒絶する力も、もう残っていない。
「……見るぞ」
『能力:絶対診察眼が発動しました』
『対象:狼獣人』
『状態異常:左脇腹裂傷・重度/瘴気汚染による組織壊死/気道炎症』
『兆候:瞳孔散大、過呼吸、筋緊張、強い防御反応』
「なんだこれ……ステータス表示か? いや、今はいい」
文字情報が視界に流れ込み、こめかみがずきりと痛んだ。だが、それ以上に重要なのは、同時に浮かび上がった体内の構造だった。
見たこともない狼獣人の身体が、俺の知る犬科動物の解剖図と重なっていく。血管の走行、筋肉の位置、傷の深さ。どこを押さえ、どこを避け、どこから洗うべきかが、手に取るように分かった。
傷口周辺の皮膚が、コールタールのようにどろりと黒ずみ、異常な高熱を発している。単なる化膿じゃない。可視化された情報の通り、傷口からあの黒い泥のような『瘴気』が入り込み、組織を急速に腐らせている。
(この黒い泥……揮発性の猛毒か? 呼吸器から吸い込み続ければ、確実に命を落とすぞ)
彼女の重篤な症状を目の当たりにして、俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「これほど強い汚染……。待てよ。じゃあ、昨夜からこの森にいる俺は、なぜ平気だった?」
ハッとして周囲を見渡す。彼女が倒れている場所は、草木が黒く枯れ果て、空気がどんよりと澱んでいる。だが、俺が立っている場所から数メートル後方――プルが通った跡だけ、黒ずみが薄くなっている。空気も、そこだけわずかに軽い。
「……プル。お前が、俺の周りの汚染された空気をずっと浄化してくれていたのか」
『ぷる?』
跳ね続けるプルを見て、ようやく腑に落ちた。
こいつはただの雑魚魔物なんかじゃない。少なくとも、この黒い汚染を分解し、周囲の空気まで浄化できる。生態系で言えば、こいつは分解者どころか、汚染地帯そのものを再生させる存在だ。
俺は急いで『往診バッグ』から生理食塩水とガーゼを取り出すと、プルに向かって頼んだ。
「プル、頼みがある。この子の傷口に入り込んだ黒い泥を吸い出せるか?」
『ぷるっ!』
プルが傷口にそっと張り付く。じゅう、と嫌な音がして、黒いものが吸い出されていく。
「ひゃっ!? なんなのだ、冷た……っ」
「動くな。すぐには縫わない。汚れを閉じ込めたら中で悪化する。まずは黒い泥を抜いて、洗って、血を止める」
プルのひんやりとした体が患部を冷やし、痛みを鈍らせる鎮痛の役割も果たしてくれている。
俺はその間に生理食塩水で傷口を徹底的に洗浄し、清潔なガーゼで圧迫止血を施して、包帯でしっかりと固定した。
人間への憎悪を口にしていた彼女も、手際よく進む俺の処置と、痛みが引いていく感覚に、次第に呆然とした表情になっていった。
「……なんで。なんで、人間が私を助けるのだ……?」
「俺は獣医だからな。目の前に怪我をした生き物がいたら、助けるのが仕事だ」
俺は、まだ名前も知らない彼女に微笑んだ。
「俺のそばにいろとは言わない。逃げたいなら止めない」
俺は包帯を結びながら言った。
「でも、明日の朝、もう一度だけ傷を見せてくれ。獣医として、それだけは頼みたい」
「……勝手にすれば……いいのだ……」
彼女はそっぽを向いた。ただ、ぴんと立っていた耳が、ほんの少しだけ伏せられていた。
俺は思わず、頭の中に新しいカルテを一枚開いた。
【患者個別カルテ】
種名:狼獣人。
主訴:左脇腹裂傷、黒色汚染を伴う呼吸苦。
処置:プルによる汚染除去、洗浄、圧迫止血、被覆。
特記事項:人間不信。威嚇はするが、耳は嘘をつけない。
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