第1話 魔物は討伐しません、診察します
「いつも応援ありがとうございます!お楽しみください!」
目を覚ますと、ひんやりとした土の匂いが鼻腔を突いた。
「……っ、痛てて。なんだ、ここ……?」
体を起こそうとして、全身の筋肉が軋むような痛みに顔をしかめる。手のひらに触れているのは、見慣れた動物園の診察室の床ではない。処置待ちの動物のために敷き詰めた藁の上でもない。土と短い草の感触だった。
ゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、人の手が入った長閑な『畑』と、それを囲う背の低い木の柵だった。どうやら俺は、その畑のすぐ横の草地に倒れていたらしい。動物園の裏山ではない。ましてや、こんな広大な畑に見覚えはなかった。
たしか俺は、治療のための搬送中にケージから逃げ出したマレーグマの幼獣を追いかけていた。パニックを起こしたあの子が車道に飛び出して、俺は反射的にその体を抱き寄せて――。
そこから先の記憶がない。自分の体を見下ろす。いつもの緑色の術衣のままだが、どこにも怪我はない。血も流れていない。ただ、全身がひどく重だるいだけだ。
「チッ、しぶとい雑魚魔物が!」
突然、すぐ近くから男の怒声が響き、俺はビクッと肩を揺らした。声のした方へ視線を向ける。そこから十メートルほど離れた畑の端に、一人の男が立っていた。
ひどく使い込まれた汚い革鎧に、あちこちに刃こぼれのある無骨な両刃剣。そして奇妙なことに、顔の下半分には分厚い革のマスクを隙間なく巻きつけている。胸元には、何かの身分証のような擦り切れた金属の札が揺れていた。
映画のエキストラか、あるいはRPGの『冒険者』とでも呼ぶべき風貌の男が、忌々しげに剣を振り上げているところだった。
(……なんだあの男?こんな風通しのいい場所で、なんであんな息苦しそうなマスクをしてるんだ?)
俺の疑問をよそに、男の足元に、何かがいる。バレーボールほどの大きさの、半透明のゼリー状の生き物だ。
『ひゅー……ひゅー……』
それは鳴き声ではなかった。風船の空気が抜けるような、乾いた表面が微かに擦れ合う音。
俺は無意識のうちに、目を細めてその生き物を「観察」していた。言葉を話せない動物の不調を見抜くのは、動物園で多種多様な生き物を診てきた俺の職業病だ。体のつくりが違っても、苦しんでいる生き物には必ず兆候が出る。
あのゼリー状の生き物は、ひどく異常な状態にあった。本来ならみずみずしいはずの表皮は白く粉を吹き、ところどころに細いひび割れが走っている。中心に浮かぶ青い核は、どんぐりみたいに縮み、ひどく濁っていた。小刻みに震えているのは、威嚇でも攻撃態勢でもない。
逃げろ、という判断より先に、症状名が浮かんでいた。あれは、極度の脱水だ。体を保つだけの水分が、もうほとんど残っていない。放っておけば、あと数分で完全に干からびて死ぬ。
「さっさと死ねッ!」
「待ってください!!」
自分が今どこにいて、どういう状況に置かれているのかなんて、考えるより先に体が動いていた。俺は男の腕を力任せに掴むと、そのゼリー状の生き物を背中でかばうように割って入った。
「あぁ!? なんだお前、邪魔すんじゃねえ!」
男は血走った目で俺を睨みつけた。体からは、獣の脂と血、汗の混じった強い臭いがした。少なくとも、魔物を斬ることに慣れている人間なのだろう。
「そいつを逃がしたら、また畑に入るだろうが! 一匹見逃せば、明日は十匹来る。畑を守るってのは、そういうことだ! どきやがれ!」
「畑に……? いや、違います。この子はただ、水を求めて痙攣していただけです!」
「はあ? 魔物を助けるつもりか? 寝ぼけたこと言ってんじゃねえ。村じゃ子どもでも知ってるぞ、魔物は見つけたら潰すんだよ!」
男の言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。魔物。どうやらこの世界では、あの生き物をそう呼ぶらしい。そして、見つけ次第殺すのが「常識」なのだと。だが、そんな常識は俺には関係ない。
俺は男をまっすぐに睨み返したまま、ゆっくりとその場に膝をついた。
(水……水分と電解質を補給しないと手遅れになる。だが、手元に道具も水もない。どうやって……)
『道具が必要だ』と強く念じた、その瞬間だった。
俺の頭の中に、奇妙な空間のイメージがふっと浮かび上がった。
ロッカーのような、無機質で清潔な四角い空間。そして次の瞬間、俺の手元に、見覚えのある黒い『往診バッグ』がポツンと現れていた。
(……は? なんで俺のバッグが、こんな何もない空中から?)
目を疑ったが、バッグの持ち手のすり減った感触は間違いなく俺の愛用品だった。
急いでジッパーを開けて中を探る。
バッグの中身は、見慣れた往診道具――生理食塩水のパウチと、針のない細いシリンジが数本だけだった。ただの水ではない。体液に近い濃さに調整された、弱った体へ戻すための水。予備は少ない。これを使い切ったら、もう同じものは手に入らない。そんな気がした。
だが今は、そんなオカルト現象やアイテムの残量を気にしている場合じゃない。背後の小さな体は、見ている間にもさらにひび割れていく。限界だ。
「おい、何してんだお前! マジで魔物を助ける気か!? 頭おかしいんじゃねえのか!」
背後から男の怒声が降ってくる。俺はシリンジに生理食塩水を取った。先端を生き物のひび割れた表皮へ慎重に当てながら、苦笑交じりに答えた。
「……ええ、そうかもしれませんね」
自分でも狂っていると思う。自分が死んだ直後かもしれないのに、見知らぬ森で、見知らぬ生き物の治療を最優先にしているのだから。
「でも、弱っている動物を目の前にして、自分の状況確認を優先する獣医はいませんから」
触れた表面は、ゼリー状の見た目から想像する冷たさとは違い、異様な熱を持っていた。
弱りきった体に、一気に水を入れるのは危ない。かえって体を壊すことがある。少しずつ。慎重に。反応を見ながら。一滴、また一滴と、シリンジの先から水分を浸透させていく。
「……ッ、チィ! 勝手にしろ、イカレ野郎! 噛み殺されても知らねえぞ!」
俺の常軌を逸した行動に気味が悪くなったのか。男は地面に唾を吐き捨てると、舌打ちを残して畑の向こうへ足早に去っていった。遠ざかる足音が完全に聞こえなくなるまで、俺は手元の作業から一切視線を外さなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。何度かに分けて水分を含ませると、カサカサに干からびてひび割れていた表皮は、水風船のようにみずみずしい潤いと弾力を取り戻していた。
透明な体の奥で、縮んでいた核が一度だけ、海の底みたいな青に深く光った。
それはすぐに、透き通るような水色へ戻った。静かな鼓動を打つように、淡く明滅している。
『ぷるるっ』
その生き物――たぶん、スライムと呼ばれるものなのだろう――は、心地よさそうに全身を震わせると、俺の膝にすり寄ってきた。
ひんやりとした、水まんじゅうのような心地よい感触がズボン越しに伝わってくる。魔法で無理やり従わせたわけじゃない。苦しさが和らいで、安心しただけだ。
「よし、もう大丈夫だな……ふぅ」
そこでようやく、俺は肩の力を抜き、深くため息をついた。
立ち上がり、改めて周囲を見渡す。背後には広大な畑が広がり、目の前には鬱蒼と木々が生い茂る巨大な森が口を開けていた。
「……で。ここ、本当にどこなんだ?」
俺の疑問に答える者は誰もいない。風が木々の葉を揺らす、ざわわという音だけが返ってくる。
その時だった。すっかり元気を取り戻した足元のスライムが、不意に俺から離れ、すぐ目の前に広がる森の奥へとぽいんぽいんと跳ねていった。
「あ、おい! 待てって!」
俺は慌ててスライムを追いかけ、深い森の中へと足を踏み入れた。
少し進むと、周囲の空気がどんよりと重くなったような気がした。よく見れば、草木は不自然に黒く立ち枯れ、周囲の土はコールタールでも撒いたようにどろりと黒く変色している。
(なんだ、この土……ひどく不気味な場所だな)
むせ返るような腐臭がしてもおかしくない光景だ。だが、不思議と息苦しさはなかった。
俺の周りだけは、かろうじて空気が澄んでいるような気がした。
スライムはその黒ずんだ土の上に躊躇なく乗ると、体をぺたりと平たく広げた。
じゅう、じゅう。何かが焼けるような、湿った音がした。黒い染みが、半透明の体内へ吸い込まれていく。土の色が戻る。
数分後、スライムが満足げに体を起こした後には、ふかふかした茶色い土が残っていた。枯れかけていた草の先に、わずかな緑が戻っている。
「……お前、もしかしてすごいやつなのか?」
『ぷるんっ』
スライムは、何も知らない顔で得意げに揺れた。
俺は思わず、頭の中に新しいカルテを一枚開いた。
【患者個別カルテ】
種名:スライム。
特記事項:黒く汚染された土を食べる。無邪気で、人懐っこい。
もし『続きが気になる!』『この話、面白い!』と思っていただけましたら、下部の☆☆☆☆☆から【評価】や、作品フォロー&ブックマークをしていただけると、執筆の励みになります!ぜひよろしくお願いします!




