第16話 職人さん、鼻息に負けないマスクをください
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翌朝、バロウ牧場へ向かう前に、俺はコロとリーフの診察を済ませた。
コロは添え木を噛もうとしていた。動けるようになってきた証拠だが、まだ早い。
リーフは前肢を舐めようとする回数が減っている。ただ、俺が水袋を詰め、往診バッグを持ち上げると、耳を伏せて前肢を気にし始めた。
「出発の気配で落ち着かないか」
リコがリーフの尻尾を見て、小さく頷いた。
「あの子、音より、みんなが急いでる感じに反応してるのだ」
俺は包帯の端を直し、記録に一行を書き足した。
環境の変化で、行動は戻ることがある。
***
俺たちは、昨日にも増して重苦しい空気が漂うバロウ牧場に着いた。
まず目に飛び込んできたのは、不眠不休の見守りで今にも膝から崩れ落ちそうな牧場主、バロウの姿だった。
その落ち窪んだ目は、愛するミノタウロスが傷つくのを防ぎたいという一心だけで、辛うじて開かれているように見えた。
その横では、門番のキャスパーが深い溜め息をつきながら、慎重な足取りで藁束を一束ずつ運んでいる。
「……キャスパーさん。今日は一束ずつですか。昨日より賢明ですね」
俺が声をかけると、彼は腰をさすりながら、こちらを振り返らずに答えた。
「違う。これは、戦略的な重量分散だ」
「羽毛にも限度があると知った、ということですね」
俺の言葉に、リコが隣で「腰が負けただけなのだ」とジト目で呟いた。
そんな彼らの限界状況を黙って見つめていたのが、今日同行してもらった職人のガルドだ。
彼は、岩壁に角を打ち付け続けるミノタウロスの凄まじい鼻息と咆哮を間近で聞き、その鋭い眼光をさらに引き締めた。
「……なるほどな。こいつはただの面じゃねえ。この村の平穏を繋ぎ止めるための『楔』だ」
ガルドはそう呟くと、測り紐を握り直し、巨大な魔物の鼻面へ踏み込んだ。
「エーリスさん、お願いします!」
「はいっ、『魔力鎮静』!」
エーリスが魔力をなだめている数分間が、俺たちの勝負だった。
ガルドが大きな測り尺と測り紐を操り、俺は医学的な条件を矢継ぎ早に出していく。
「鼻孔を塞ぎすぎると呼吸が苦しくなります。あと、角の根元の傷には絶対に触れないでください」
「なら、鼻革はここで逃がして固定する。ろ過部は前面に差し込み式の金属ケースにしよう」
「内側の布は衛生上、交換式にしたいんです」
「分かった。頭絡を二本に分けて荷重を分散させ、顎下で締める。喉は潰さねえ頑丈な『革と金具の器』を叩き出してやるよ」
ガルドの指が、空中で鼻革と金具の位置をなぞっていた。俺には線しか見えない。だが、ガルドの中ではもう、形になり始めているのだと分かった。
***
古い家畜小屋に戻ったその日の夜。
ガルドが工房で「器」を製作している間、俺は「中身」であるフィルターの開発に没頭していた。
だが、大きな壁にぶつかっていた。ミノタウロス用の巨大なフィルターを作るには、プルたちの抜け殻である浄化膜が圧倒的に足りないのだ。
「ふう。どうするか……」
リコと簡素な夕食を終えた俺は、今日一日頑張ってくれたプルとプルツーを労うことにした。
『サーバーくん一号』で精製した貴重な清浄水を少し温め、彼ら専用の小さな桶に張る。
「今日はよく働いたな。これでゆっくりリラックスしてくれ」
「ぷるるっ……」
「ぷるっ!」
清浄な水の中で、スライムたちが嬉しそうに少し揺れながらリラックスする。
その様子を眺めていた俺は、『絶対診察眼』で彼らが浸かっている水を何気なく診察し、目を見開いた。
「……高濃度の浄化成分が出ている?」
スライムたちが清浄な水で心地よく揺れているうちに、体表を覆う薄い成分が、自然に水中へ溶け出していたらしい。水面には、薄い膜もいくつか浮いていた。
「この水は……。もしかしたら……」
俺はこの「浄化液」に布を浸し、試作フィルターを作ってみた。
『絶対診察眼』で確認すると、浸した直後の浄化能力は高く、膜そのものと大差がなかった。しかし、乾燥すると成分が白い粉のように剥離し、効果が落ちてしまった。
「……染み込ませるだけじゃ駄目か。定着させる方法がいる」
別の素材にするべきか、定着させる何か良い方法があるのか、考えたが答えは出なかった。
***
夜更け、ガルドの工房に呼ばれた。そこには、補強金具が鈍く光る、頑丈な「革と金具の器」が完成していた。
「これなら、鼻息で飛ぶことはないぜ」
「ありがとうございます」と俺は頭を下げた。
「明日、実際に着用させて様子を見よう。ワタル、お前の方はどうだ? うまくいったか」
「実はまだ完成していないんです。素材はあるんですが、それを定着する方法を見つけられなくて」
ガルドの「器」は、完璧な形になった。俺の「中身」も、可能性だけは見えた。だが、成分を定着させなければ、まだ患者の呼吸を守ることはできない。
「明日、エーリスさんに相談したらどうだ? きっといい案があると思うぜ」
「そうですね。医学と職人技だけでは足りない。エーリスさんなら、治癒魔法を応用する方法を考えてくれるかもしれません」
俺は頷いた。
そんな俺を見て、ガルドは「あと、もう一つ試したいことがある」と言った。
「なんですか?」
「俺が見たところだと、藁を変えるのも限界じゃないか? むしろ治療中はミノタウロスの動きを制約する必要があると思うんだ」
「ハーネスのようなものを作って、動きを制約すれば、角が岩盤に届かない……」
「そう。そうそう。そういうのを作って、みんなの負担を減らしたほうがいい。明日、現場でそれについても採寸をしようと思っている」
「ありがとうございます。本当は俺が先に気づくべきだったのに」
俺は頭を下げた。ガルドは微笑んだ。
「ワタルはミノタウロスの治療で頭が一杯だろうから、そこまで頭が回らなくてもしょうがないぜ。そういったのは職人の俺に任せろよ」
「心強いです。では、明日よろしくお願いします」
俺はガルドの工房を出て古い家畜小屋に向かった。まだ完成には届かない。だが、足りないものは見えてきた。俺たちは確かに、前へ進んでいた。
【施設管理カルテ】
再発予防計画:将来的な日常復帰を目標に設定。森周辺での作業については、瘴気曝露対策なしには再開不可。
開発状況:器は職人ガルドにより、馬具製作技術を応用した密着・通気両立型の多点支持式フレームを設計。鼻面・顎下・後頭部への分散固定により、呼気圧および首振りへの耐性を確保見込み。
中身は、スライム由来浄化膜に依存しない新技術「浄化布」の理論を構築。プルおよびプルツーの温浴後に残る浄化成分を布繊維に浸透させる手法を採用。
現在の課題:浄化布を乾燥させた際、成分が剥離し、持続的な浄化能力が維持できない。定着方法についてエーリスに相談予定。
現場管理:牧場主バロウの精神的疲弊、および門番キャスパーの過重労働が限界域。藁束による緩衝管理だけでは人的負担が大きく、ミノタウロス用安全誘導ハーネスの併用を検討。
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