第15話 呼吸を守る道具が必要です
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家畜小屋に、新しい朝の光が差し込む。
俺は起き抜けに、昨日設置したばかりの『プルプル・サーバーくん一号』の前へと歩み寄った。一晩かけて、木栓から滴り落ちた清浄な水が、大きなバケツを満たしている。
「よし、ちょうど10リットルといったところか」
俺は『絶対診察眼』で水質を確認し、ひとまず息を吐いた。
だが、ここからが獣医師として、そしてこの場所を預かる者としての仕事だった。俺はリコとプルたちの前で、この貴重なリソースの分配を開始した。
「リコ、まずは飲み水だ。俺たちとコロ、リーフの分で4リットル。コロには少し多めに回す。傷の回復には水分が要るからな」
「リーフは少なめでいいの?」
「食事に水分を混ぜる。直接飲ませる分は少なくていい」
「……なるほど。水も、群れの分配なのだ」
さらに2リットルを、包帯交換と患部洗浄用に分ける。
リーフの前肢は、昨日より赤みが引いていた。ただ、俺が包帯を外すと、反射的に舐めようとする。
「まだ駄目だ。舐めるのは治療じゃない」
リーフは不満げに尻尾を揺らした。
そして残った4リットルを、俺は往診用の水袋数本に詰め、往診バッグに収めた。
「水はできた。だが、これは今の生活を守るための量だ」
俺は自分に言い聞かせる。
飲み水には足りるが、ミノタウロスの巨体を洗ったり、環境そのものを変えたりするには、これだけではまだ圧倒的に足りないのだ。
***
バロウの牧場に着くと、そこには極限の疲労が漂っていた。
牧場主のバロウは、愛するミノタウロスを見守り続け、不眠不休の数日間で目の下に深い隈を作っている。
「バロウさん、少しは休んでください。ここからは俺たちが引き受けます」
「任せろ! ルミナ村の守り手、このキャスパーが――」
キャスパーはそう言って、泥と血を吸った藁束を抱え上げようとした。だが、腰が不穏な音を立てる前に、俺はその腕を押さえた。
「今日は見栄ではなく、作業配分を守ってください。腰椎は村を守ってくれません」
「……くっ」
「まあ、無理をしない判断も立派ですわ、キャスパーさん」
エーリスが微笑むと、キャスパーは一瞬で背筋を伸ばした。
「よし、俺は指揮に回る!」
リコが隣で、冷ややかに尻尾を揺らした。
「……立ち直りが早いのだ」
***
往診用の水袋から出した水でミノタウロスの傷を洗い、プルツーが周囲の瘴気を食らい、エーリスが『魔力鎮静』をかける。
その連携の結果、ミノタウロスの角打ちの間隔は、昨日よりわずかに伸びていた。
「ワタル先生、ありがとう。……もし落ち着いたら、またあいつと森の境まで荷を運べるようになるだろうか。あいつは、あそこの道をよく覚えているんだ」
バロウが漏らしたその一言に、俺の背筋に冷たいものが走った。
(……森の境。そこは、あの子が瘴気を吸い込んだ場所だ)
牧場の空気を一時的に整えても、それだけでは足りない。かつて森の境で吸い込んだ毒が、今も彼の中枢を乱し続けている。
もし治療を終えて元の仕事に戻せば、彼は再び同じ場所で瘴気を吸い、同じ苦しみを、もう一度繰り返すことになる。
「……治療とは、症状を止めることではない。再発を防ぎ、元の生活へ戻すことだ」
俺は強く拳を握りしめた。かつて森でリコを追ってきた奴隷商人たちが、分厚い革のマスクで瘴気を防いでいたのを思い出す。
あの構造に、プルの抜け殻の浄化膜を組み合わせれば、日常復帰を支える「フィルター」になるのではないか。
俺はその夜、古い家畜小屋に戻ると、貴重な「プルの膜」を数片使い、夜通しで自作のマスクを縫い上げた。
***
翌朝。俺は自信作を手に、再び牧場へと向かった。
エーリスが鎮静をかけた一瞬の隙に、俺はミノタウロスの鼻面に駆け寄り、自作のマスクを装着しようとした。
「よし、これで――」
俺が固定を終えようとした、その瞬間。ミノタウロスが大きく鼻を鳴らした。
「フンッ!!」
凄まじい風圧だった。俺が苦労して縫い合わせた布と膜は、その鼻息一発であっけなく吹き飛び、放物線を描いて牧場の泥の中に無残に落ちた。
「……あ」
泥に落ちた布を見て、胃が沈んだ。失敗したのは俺の裁縫ではない。貴重な膜を、実用に耐えない形で使ってしまったことだ。
呆然とする俺の横で、リコが呆れ果てた声を上げた。
「……ワタル。さっきから言おうと思ってたけど、それ、ただの『鼻用のおむつ』なのだ。鼻当てにもなってない」
「……おむつって言うな。器さえしっかりしていれば、理論は正しいんだ」
だが、俺は痛感していた。中身の考え方は間違っていない。だが、これを実際に大型の魔物に着けさせるための「器」を作る技術が、俺には圧倒的に足りないのだ。
***
往診の帰り道、俺はルミナ村のガルドの工房へと駆け込んだ。
「ガルドさん、相談があります! 魔物の顔に完璧に密着し、激しい動きでもズレない装備を作ってほしいんです」
俺はフィルターの理屈と、気密性の必要性を必死に説明した。ガルドは俺の話を黙って聞き、最後にハンマーを置くと、鼻を擦って言った。
「なるほどな。そいつは馬具の知識の応用だ。轡、面、鼻革、頭絡……顔に着ける道具は、ただ縛ればいいってもんじゃねえ。息を殺せば暴れる。緩けりゃ飛ぶ。痛けりゃ二度と着けさせねえ。そこを合わせるのが俺の本職だ」
「……っ、できますか!」
ガルドは壁にかかっていた太い革帯と金具の束を手に取り、力強く笑った。
「道具ってのは現場を見ねえと始まらねえ。ワタル、明日、俺も行くぞ。直接その『患者』の面構えを拝ませろ」
俺の作った鼻用おむつではなく、患者が身につけられる本物の道具を作るために。
職人の魂に火がついた瞬間だった。
【施設管理カルテ】
再発予防計画:将来的な日常復帰を目標に設定。森周辺での作業については、瘴気曝露対策なしには再開不可。
開発対象:呼吸保護用・対瘴気マスク、仮称『息守りマスク』。
技術協力:馬具・農具職人ガルドを招聘。馬具製作技術を応用し、フレーム、固定具、交換式ろ過部の設計を検討。
試作結果:獣医師自作の一次試作は、呼気圧および装着安定性への耐久不足により失敗。
特記事項:医学的理論を実用装備へ落とし込むには、工学的実装が不可欠。患者の呼吸、皮膚への接触圧、装着ストレスを含めて設計する必要あり。
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