第14話 スライムの膜は、瘴気を食べます
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古い家畜小屋に、新しい朝が来た。俺は起き抜けに、窓際で丸くなっているプルの様子を診察した。
「おはよう、プル。体調はどうだ?」
「ぷるるっ!」
元気な返事。数日前に分裂してからというもの、プルとプルツーはそれぞれ役割をこなし、魔力の循環もすっかり安定している。
窓から差し込む朝日に透ける水色の体は、どこまでも澄んでいた。
俺はふと、昨日プルが短く浸かった水桶に目をやった。
水面には、薄く透明な膜がいくつか浮いている。
まるで、プルが脱皮したあとの抜け殻のようだった。
(……これは、プルが自然に残した薄い膜か)
俺はそれを指ですくい、集中する。
(――『絶対診察眼』)
『対象:スライム由来薄膜』
『状態:瘴気反応・陰性』
『特記事項:微弱な浄化反応あり』
表示を見た瞬間、心臓が跳ねた。
俺は昨夜の井戸水を小皿に取り、そこへ薄膜の欠片を一つ浮かべた。
しばらく待つ。
水面に、淡い青がゆっくり広がった。
(――『絶対診察眼』)
『対象:薄膜接触後の井戸水』
『状態:瘴気反応・低下』
『判定:継続接触により清浄化可能』
「……膜だけでも、残るのか」
プル本人やプルツー本人をろ過槽に入れれば、もっと早く浄化できるかもしれない。しかし、それは今の家畜小屋では最大の禁じ手だ。
プルとプルツーは、この小屋や周辺の空気を維持するために、毎日働いてくれている。その大事なスタミナを、水質浄化にまで回させるわけにはいかない。
「よし。プル、お前が残してくれたものを、少し借りるぞ」
「ぷるるっ」
俺はガルドに据え付けてもらったポンプの横で、濾過槽の改造を始めた。ガルドの仕事は完璧だが、その先の「浄化」は俺の領分だ。
手元にある膜は、わずか数片。これを活かすため、俺は木箱の中に板を噛ませ、水がジグザグに長い距離を這うような流路を作った。
そして、タンクの底に小さな穴を開け、そこに枝を削って作った「木栓」を差し込む。
「名付けて、生体膜利用型・超低速滞留ろ過式浄水箱――愛称『プルプル・サーバーくん一号』だ!」
「……ワタル、それ本気で言ってる? プルの抜け殻入りの箱なのだ」」
大きめの木箱を小屋の中に運び込む俺を、リコが冷ややかな目で見つめていた。
「何を言う。外に置くと装置が汚染されてしまうだろ。プルたちが守ってくれているこの綺麗な空気の中で処理したいんだ。時間はかかるが、この手作りの栓を調節して一滴ずつ通せば、あの子たちに余計な魔力を使わせずに済む。時間はタダだが、プルたちの健康は代えが利かないからな」
「優しいな、ワタル。……変なところでケチだけど」
リコは呆れたように笑い、床下で「ぷるっ」と短く鳴くプルツーの頭を優しく撫でた。
***
その日の往診は、これまでになく神経を削るものだった。俺は、往診バッグに残っていた最後の「清浄水の袋」を手に、隣村の牧場へ向かった。
ドォン。
ドォン……。
ミノタウロスの角が、岩壁を叩く音が響く。
「ワタル、危ない! 今のあの子は、誰が近づいても見分けがつかないのだ!」
リコが鋭い耳を伏せて警告する。だが、俺の手元には最後の一袋の清浄水しかない。これを無駄にするわけにはいかなかった。
「エーリスさん、お願いします!」
「はいっ!」
俺の合図で、治癒士のエーリスが杖を掲げた。彼女の放つ柔らかな光がミノタウロスを包む。
『魔力鎮静』
頭部から首筋にかけて荒れ狂う魔力の乱れを、一瞬だけなだめる。今この場で、それができるのはエーリスだけだった。
「……今です! 長くは持ちません!」
ミノタウロスの動きが、ふっと緩んだ。その隙を逃さず、門番のキャスパーが叫ぶ。
「おい、牧場主! 丸太を差し込め! わら束で頭を支えろ!」
キャスパーと牧場主が、命がけでミノタウロスの頭部と岩壁の間に巨大な藁束をねじ込む。物理的な「防波堤」が作られたその数秒の間だけ、ミノタウロスの突進が止まった。
俺は迷わず、その巨体の足元へ滑り込んだ。返り血と泥にまみれた角の根元。俺は貴重な「清浄水の袋」を切り、丁寧にその傷口を洗い流した。
(……診えた。行動を止める仕組みが壊されている感じだ)
透過図に映る頭部の魔力汚染は、今の牧場の空気だけが原因ではない。かつての森での蓄積による毒が、彼の中枢を狂わせている。
「ワタル、離れて! 次がくるのだ!」
リコの叫びと同時に、俺はキャスパーに襟首を掴まれて後ろへ飛び退いた。直後、鎮静が解けたミノタウロスが、再び猛烈な勢いで藁束を突き破り、岩壁に角を叩きつけた。
「……はぁ、はぁ……。よし、洗浄はできた」
俺は空になった袋を握りしめた。これが最後の一袋。
もし、『サーバーくん』が失敗していれば、明日の朝、俺はこの子の痛みを洗ってやることすらできなくなる。
***
「……頼む、成功していてくれ」
俺は祈るような思いで『サーバーくん』の前に跪き、木栓をゆっくりと引き抜いた。数時間を経て、細い流路を伝い落ちた水が、コップ一杯分ほど溜まっている。
(――『絶対診察眼』)
『判定:瘴気反応・陰性(清浄)』
「……っ、よし……!」
俺は慎重にその水を口に含んだ。
「……ああ、澄んでいる。喉に刺さる感じがまったくない」
「ワタル、どうだった……?」
不安そうに覗き込むリコに、俺はコップを差し出した。彼女は俺の顔を見て、意を決したように、ほんの少しだけ口に含んだ。
「……軽い。変な匂いもしない。……甘くて、美味しいのだ」
リコの耳が、ぴんと立った。ようやく俺の全身から力が抜けた。
このペースなら、一晩回し続ければ明日の朝にはバケツ一杯分の水が溜まる計算だ。今までは往診バッグの残数を数えて胃を痛めていたが、これからは「明日使う分の水」を、自分の手で作ることができる。
水の問題が、解決したわけではない。
それでも、明日使う分の水を、自分たちの手で作れるところまでは来た。プルたちを直接酷使せずに、この家畜小屋で命をつなぐための、最初の基盤を手に入れたのだ。
俺は空になったコップを見つめ、次なる治療への決意を新たにした。
【施設管理カルテ】
浄水設備:スライム由来浄化膜を用いた「屋内・狭路滞留式ろ過システム」を試作。
技術特性:膜の希少性を踏まえ、内部にジグザグの流路を設営。木栓による滴下速度の調整により、少量の清浄水生成に成功。プルおよびプルツー本体への直接的な魔力負荷を避ける構造とする。
検証記録:『絶対診察眼』により瘴気反応消失を確認。ワタルおよびリコによる少量の実飲でも、喉刺激・異臭の消失を確認。
生成量:現状では一晩あたり約一バケツ分。大型個体の洗浄、処置室清掃、複数患者の同時対応には不足。
特記事項:医療用清浄水の最低限の自給手段を確保。今後、生成量の拡大とプル由来膜の安定確保が課題。
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