第10話 二人目の患者は、毛づくろいをやめられません
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「おいおい、ワタル先生! これは一体どういうことだ!」
朝一番、約束通り家畜小屋を訪れた村長ゴランは、入り口で足を止めるなり、雷のような声を上げた。
その太い指が指し示しているのは、窓際で「ぷるるっ」と鳴く水色のプルと、排気ルートである床下で「ぷるっ」と短く応える、少し色の濃いプルツーの二体だ。
「魔物を勝手に増やさないのが条件だったはずだぞ! スライム一匹ならまだしも、二体も連れ込んで……!」
「村長、ご心配なく。瘴気を吸い続けた結果、体が二つに分かれました。勝手に連れ込んだわけではありません。どちらも昨日ギルドへ向かい、正式に『従魔札』の登録を済ませてきました」
俺は、二体の体表で鈍く光る金属札を見せた。スライムの体であっても決して中に沈み込まないその札は、管理責任の証だ。ゴランは毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。
「プルは吸気口、プルツーは排気ルートの浄化を担っています。おかげでこの小屋の空気は、村の中よりも清浄ですよ」
さらに俺は、タオルで耳を隠し、外套で尻尾を隠して俺の横に立つリコを紹介した。
ゴランはリコを見て、目を細めた。
「……その娘も、手伝うのか」
リコの肩がわずかに跳ねる。それでも、彼女は俺の横から逃げなかった。
「……ワタルの助手の、リコです」
そう答えると、ゴランはしばらく黙ってリコを見つめ、やがて短く息を吐いた。
「……そうか」
だが、その視線が隔離ケージの中、昨夜入ったばかりのウィンドウルフの幼獣に向くと、再び鋭くなった。
「だが先生、このウィンドウルフは別だ。今は大人しくしていても、いつ野生の……」
言いかけたゴランの言葉が、ふっと止まった。
ケージの中のコロは、今朝整えたばかりの絹のような毛並みを光らせながら、ゴランの前でころんと仰向けになった。
それだけではない。
「ク~ン、クゥ……」
幼獣特有の高い甘え声を出しながら、大きな前足で顔を隠すように丸まり、チラリと上目遣いでゴランを見つめた。
「なっ……」
「お腹を見せるのは、少なくとも今この場で、攻撃するつもりが薄いサインです。かなり落ち着いています」
コロはさらに追い打ちをかけるように、ゴランが近づくと柵の間から鼻先を突き出し、ふんふんと彼の匂いを嗅いでから、ペロッとゴランの指先を舐めてみせた。
「……こ、こいつ、わしに鼻を擦り付けて……。おいワタル先生、さっきまでのあの、森での凶暴さはどこへ行ったんだ。これでは、ただの出来損ないの子犬ではないか」
ゴランの口調から険しさが消え、代わりに戸惑いと、隠しきれない「おかしみ」が混ざり始めた。
「先生、ちょっとこの……この毛並みを触ってもいいか?」
「ええ、優しくお願いします。コロ、いい子にするんだぞ」
ゴランの太い指がコロの頭に触れる。コロはあざとく目を細め、「うにゃっ」と喉を鳴らして指に頭を押し付けた。
「……ほう、なんという柔らかさだ。これが……魔物だと……」
村一番の権力者が、孫娘を助けられた時以来の柔和な表情で、コロのあざとい可愛さに完全に毒気を抜かれていた。
だが、その時だった。床下のプルツーが鋭く震え、リコが小屋の裏手の物音を察知した。
ガサガサッ、と激しい音がして、茂みから一体の小動物が転がり出してきた。四肢には美しい緑色の毛が生えているが、その生き物は一心不乱に自分の左前肢を激しく噛み毟っている。
「ひっ、魔物か! 襲ってくるぞ!」
ゴランが身構える。俺は即座に意識を集中した。
(――『絶対診察眼』)
『状態:左前肢の組織欠損・炎症・重度の瘴気汚染』
『兆候:同一部位への反復刺激、過剰グルーミング、意識混濁』
「村長、待ってください。これは攻撃ではありません。……自分の前肢を傷つけ続けている、過剰グルーミングです。舐める行動が止まらず、自分の皮膚を傷つけている状態です。」
俺が守るように一歩踏み出した瞬間だった。
それまで自分を傷つけていたその魔物が、弾かれたように顔を上げた。血走った瞳が俺を捉え、喉の奥から「フシューッ!!」という、肺を削るような鋭い威嚇音が漏れる。緑色の毛を逆立て、爪を剥き出しにして今にも俺の顔を切り裂かんと飛びかかってきそうな勢いだ。
瘴気汚染に伴うパニックの可能性が高い。痛みと恐怖が混ざり合い、相手が誰であろうと「敵」としか認識できていないように見える。
「……落ち着け。俺は敵じゃない」
俺は護身用の短剣に手を伸ばすゴランを制し、その場でゆっくりと膝をついた。正面から近づかない。目を合わせない。逃げ道を完全には塞がない。
犬型のコロとは違う。猫型に必要なのは、服従の合図ではなく、距離と隠れられる余白だ。
俺は視線を斜め下へ落とし、数秒かけて、ゆっくり瞬きをした。
敵意はない。そう伝えるための、最低限の作法だった。
「……リコ、頭側を頼めるか。優しく、な」
こちらを完全に信用したわけではない。それでも、飛びかかるほどの力は抜けたらしい。魔物は低く唸りながら、その場に伏せた。
リコがそっと回り込み、視界を遮るように手を添える。俺はその隙に、往診バッグから取り出した生理食塩水で、血の滲む患部を洗い流した。これが最後の袋だ。
「プル、黒い泥を吸い出してくれ」
プルが傷口に張り付く。じゅう、と音がして、傷口にこびりついていた不気味な黒い瘴気が吸い込まれていく。プルのひんやりとした鎮痛効果もあり、魔物は深い溜め息を漏らすように脱力した。
俺は手早く患部を処置し、昨日完成させたばかりの『第二の隔離区画』へとその子を収容した。
「昨日のうちに作っておいて、正解でした」
「……そういうことか。昨日のうちに作ったのは、こういう時のためか」
ゴランは深く息を吐いた。
「ここまで見せられて、今すぐ追い出せとは言えん。だが、完治までだ。そこは忘れるなよ、ワタル先生」
ゴランは感心したように大きく息を吐くと、二匹目の魔物の「入院」を条件付きで認め、屋敷へと帰っていった。
「ふぅ。……リコ、助かったよ」
俺が声をかけると、リコは外套を脱ぎ、ふさふさの尻尾を解放した。
「……あの子、体中に葉っぱがくっついてたのだ。森から必死に逃げてきたのかしら」
リコの言葉に、俺は隔離ケージの中で丸くなったフォレストキャットを見た。確かに、緑の毛並みに多くの木の葉が絡みついている。
「そうだな。じゃあ、名前はリーフでいいか」
「……また安直なのだ」
リコは呆れたように肩をすくめたが、その瞳は優しかった。
俺は隔離ケージの二体を見つめながら、今後のことを考えた。
コロは外向きの攻撃性、リーフは内向きの自傷行為。どちらも重度の瘴気汚染を伴い、浄化されたこの環境下で落ち着き始めている。
(瘴気が個体の『行動』そのものを特定のパターンで狂わせている可能性があるな……)
この医学的知見を、自分だけのメモで終わらせてはいけない。
「明日の朝には、ミーナちゃんの経過観察を兼ねて治癒士のエーリスが往診に来るはずだ」
彼女の正確な観察眼と魔法による裏付けがあれば、この「行動異常と瘴気の関係」を客観的な症例記録として残せる。
俺は明日のエーリスとの症例共有に向け、頭の中のカルテを丁寧に整理し始めた。
【患者個別カルテ:コロ】
種名:ウィンドウルフ(幼獣)
状態:右後肢裂傷・圧挫傷・骨折疑い。固定継続。
経過:浄化環境下で攻撃性低下。食欲・接触行動あり。
特記事項:村長ゴランに対し、腹部を見せる、鼻先を擦りつけるなど、服従・信頼を示す行動を確認。
【患者個別カルテ:リーフ】
種名:フォレストキャット
状態:左前肢への過剰グルーミングによる皮膚損傷。重度の瘴気汚染。
処置:視線回避・緩徐接近による刺激低減、洗浄、プルによる汚染除去、第二隔離区画へ収容。
考察:コロは外向きの攻撃性、リーフは内向きの反復行動。瘴気が行動に与える影響を検討する上で重要な症例。
【個体管理メモ:プル】
役割:窓際の空気浄化、および治療時の瘴気直接吸引・冷却担当。
特記事項:リーフの治療において、患部の黒色汚染を除去し、鎮痛を補助。
【個体管理メモ:プルツー】
役割:床下の空気浄化、および異変察知。
特記事項:小屋裏手に現れたリーフの異変を早期に察知。
【施設管理カルテ:古い家畜小屋(仮)】
状態:換気システム安定。第二隔離区画稼働。
特記事項:村長ゴランが二頭目の一時入院を条件付きで承認。翌朝、治癒士エーリスの往診に合わせて症例共有を実施予定。
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