第99話 奇跡と危機
それは突然のことだった。ドーバー海峡の空を暗雲が覆い尽くし、海が牙を剥いたように荒れ狂っていた。
ドーバー名物の突風が、突如として戦場へ吹き荒れたのだ。
「風向きが変わったぞ! 追い風だ! 天は我らを見捨てておらんッ!」
旗艦『ヴィクトリー号』の甲板で、ネルソン提督が閃光のような眼光を放った。
突如として切り替わった強烈な追い風を受け、満帆に風を孕んだイギリスの木造戦列艦群が、まるで解き放たれた猟犬のように爆発的な加速を見せる。
「全艦、この風に乗れ! 敵の蒸気艦に肉薄し、接舷せよッ!!」
「「「うおおおおおッ!!」」」
凄まじい波飛沫を上げ、数十隻のイギリス艦隊がフランスの装甲艦隊へ向けて雪崩を打って突進する。
荒波によってフランス艦の蒸気外輪が空回りし、一瞬だけ機動力が鈍ったその隙を、ネルソンは見逃さなかった。
グラリと船体が揺れ、フランス旗艦『マサト号』の目と鼻の先まで、イギリスの大型戦列艦が肉薄する!
「引きつけるな! 敵の乗り込み部隊が来るぞ!」
フランス艦の甲板で罵声が飛び交う。イギリス兵たちがグラップリングフック(鉤縄)を投げつけ、鉄の装甲へと船体を無理やり繋ぎ止めようと躍起になった。
風と荒波を味方につけたネルソン渾身の「近接乱闘戦」が、ついに実を結びかけたのだ。
だが、フランス旗艦の艦橋で、ラトゥーシュ=トレヴィル提督は一切動じることなく、冷徹に眼下の敵を見下ろしていた。
「ネルソン提督……実に見事な執念だ。風の気まぐれすらも武器に変えて見せたか」
提督は腰のサーベルを抜き、不敵な笑みを浮かべて前方を指し示した。
「だが、マサト総裁が我が艦隊に授けたのは、ただの装甲とボイラーだけではない! 『マスト破壊用鎖弾』および『榴弾砲』、全門装填! 敵の脚を根こそぎ奪えッ!」
ドゴォォォォンッ! ドカァァァンッ!!
至近距離から放たれたのは、二つの鉄球を頑丈な鎖で繋いだ特殊砲弾であった。
荒狂う海上で旋回しながら放たれた鎖弾は、迫り来るイギリス戦列艦群の巨大なマスト群へ向かって一直線に飛んで行き、容赦なくイギリス艦隊のマストを破壊していく。
「な……マストが破裂したぞ!?」
「帆綱が絡まった! 舵が折れるーッ!」
凄まじい破砕音とともに、イギリス艦の命である巨大な木造マストが次々と根元から曲がり折れる。帆船の命とも言えるマストが曲がることにより、操縦が一気に困難となる。それはイギリスの旗艦『ヴィクトリー号』も例外ではなかった。
だが、この男はまだ諦めていなかった。イギリス海軍の英雄、ネルソン提督だ。ネルソンは曲がったマストなど意に介さず、鬼気迫る表情で即座に命令を下す。
「今すぐ、重量物を左舷前方に集めろ!」
さすがはイギリス海軍。緊急事態にあっても、兵らはネルソンの命令に疑問も異論も唱えず、即座に作業を開始した。重い備え付けの予備砲弾や予備錨、そして数百人の水兵たちが、怒号とともに一斉に左舷前方へと雪崩を打って移動する。
一気に重心が偏った『ヴィクトリー号』は、左前方を海面へ深く沈み込ませた。
船体が左へ大きく傾いた瞬間、海中に沈んだ船底の不均一な水圧と、曲がり垂れ下がったマストが受ける突風の抵抗が相乗効果を生み出し、巨艦がまるで生き物のように、荒波の上で旋回を始めたのだ!
「な……なに!? 敵艦がマストが折れてるのに、旋回している……!?」
フランス旗艦『マサト号』の操舵手が目を見開いた。
操舵不能に陥ったと思われた『ヴィクトリー号』は、自ら左前方を沈めるという正気の沙汰ではない奇策によって、荒波の上をコマのように滑らかに急旋回。
あつらえたかのように、死角からフランス旗艦『マサト号』の開けた側胴へ向けて、完全な
「右舷全砲門」を正対させたのである
「よし……! 敵の鉄の怪物……その脇腹を捉えたぞッ!!」
ネルソンが鋭くサーベルを振り下ろし、絶叫した。
「全右舷砲門、撃てぇぇぇッ!!」




