海の両雄
至近距離から放たれた『ヴィクトリー号』右舷五十門の重砲が一斉に火を噴いた。距離はわずか数十メートル。絞り出された漆黒の煙と眩い閃光が、荒れ狂うドーバー海峡の海を包み込んだ。
ドガアァァァァンッ!! パキィィィンッ!!
鉄装甲に包まれたフランス旗艦『マサト号』の側面へ、数百ポンドの鉄球が一命を賭して叩きつけられた。
これまで敵の砲弾を紙くずのように跳ね返してきた無敵の装甲であったが、流石にこの至近距離からの五十門全弾斉射のエネルギーは絶大だった。分厚い鉄板が凄まじい金属音を立てて大きく歪み、表面の装甲板が爆ぜて四方へ飛砕する。装甲を固定していた無数の巨大なボルトが弾丸のように飛び散り、内部の鉄骨が悲鳴を上げて軋んだ。
「ぐわあぁぁぁっ!?」
衝撃波は『マサト号』の甲板と船内を直撃した。
激しい揺れによって多くの水兵が吹き飛ばされ、石炭をくべていた機関室では蒸気パイプの一部が断裂。激しい高圧蒸気が噴出し、真っ白な煙が艦内に充満する。外輪を駆動させていた右舷の巨大な歯車が歪み、バリバリと鈍い音を立てて回転速度が落ちていった。
さらに甲板上にある砲の一門が砲身ごと吹き飛び、装甲艦『マサト号』は大きく右へ傾いた。
「報告ッ! 右舷一番・二番装甲帯に亀裂! 第二ボイラーの圧力が低下しています!」
煙が充満する艦橋で、ラトゥーシュ=トレヴィル提督は倒れそうになる身体を手すりで支え、口元から滲む血を拭った。
「フ……フハハハ! 見事だ、ネルソン! まさに命を削った渾身の一撃……! だが、我が『マサト号』はまだ沈まん!」
装甲は破れ、ボイラーに深刻なダメージを追った。だが、アランソンの工匠たちが造り上げた艦は、この壊滅的打撃に耐え抜いたのだ。浸水は水密区画で食い止められ、左舷のボイラーと推進力は依然として生きていた。
両雄の距離は、いよいよ互いの水兵の表情が見えるほどの泥沼の至近距離。
だが、荒狂うドーバーの波と、互いの船体から立ち上る凄まじい爆風によって、イギリス兵が投げつけるグラップリングフックはことごとく弾かれ、あるいは水兵たちに断ち切られた。
接舷乱闘戦へ持ち込みたいイギリス軍と、それを拒むフランス軍。海上で巨大な鉄と木が押し合い、互いに一歩も引かぬ泥沼の超近距離砲撃戦が繰り広げられた。
フランス兵たちは歪んだ砲門から、残された砲を『ヴィクトリー号』の甲板へ向けて至近距離から叩き込み返す。
木造の『ヴィクトリー号』の甲板は瞬く間に地獄絵図と化した。木の破片が暴風のように舞い散り、白煙の中で叫び声と悲鳴が錯綜する。双方、一船も引くことのできない凄惨な削り合いが、海峡の荒波の上で永遠と思われるほど長く続いていた。
その硝煙と血煙が渦巻く『ヴィクトリー号』の甲板上で、ネルソン提督はただ一人、仁王立ちになっていた。
左袖を胸に留めた金刺繍の提督服。帽子に輝く勲章。彼は部下たちの「物陰にお隠れください!」という必死の制止を拒み、装甲が歪みつつもなお黒煙を吐き続ける『マサト号』をしっかりと見つめていた。
……届かない、か。我が命、我が海軍の全力を注ぎ込んだ一撃をもってしても……あの鉄の怪物を海に沈めることはできぬか……
ネルソンの胸に落ちたのは、絶望ではなく、ある種の清々しい諦念だった。
自分たちは時代の波に抗ったのだ。風と木で海を制した時代から、鉄と蒸気、そして膨大な物流が支配する新時代への移り変わり。それを推し進めたパリの若き指導者、マサト総裁という存在の恐ろしさを、ネルソンは誰よりも理解していた。
「提督! 避難してください! 敵の狙撃兵が……!」
「構わん」
ネルソンは静かに首を振った。
「イギリスは……我々の海軍は、最後まで誇り高く戦った。それで十分だ……」
次の瞬間。
『マサト号』の甲板から放たれた一発の小銃弾が、激しい白煙を切り裂いて飛来した。
バシッ……!
鉛の弾丸が、ネルソンの左肩から胸へと深く突き刺さった。
彼の身体がグラリと揺れ、甲板の上に崩れ落ちる。
「提督ーッ! ネルソン提督ぅッ!!」
側近たちが悲鳴を上げ、膝をついて英雄の身体を抱き起した。
ネルソンの胸からは真っ赤な血が溢れ出し、彼の金色の刺繍を赤く染めていく。呼吸は浅く、視界は急激に暗闇へと落ちていこうとしていた。
「……息は……あるか……『ヴィクトリー』の……兵たちは……」
「はい! はい! みんな戦っております! 提督!」
副官が涙を流しながら叫ぶ。ネルソンは蒼白な唇に、小さな、実に穏やかな微笑を浮かべた。
「……よかった……。私は……我が義務を果たした……」
イギリス海軍の象徴であり、生涯を海に捧げた伝説の男、ホレイショ・ネルソン。
彼はドーバー海峡の冷たい風と砲声に包まれながら、その瞳を永遠に閉じた。
ネルソン戦死の報は、瞬く間に『ヴィクトリー号』、そして壊滅的な損害を受けていたイギリス救援艦隊全体へと伝播した。
指揮官を失い、マストを叩き折られ、至近距離でフランスの圧倒的な火力に晒されたイギリス艦隊は、ついに完全に崩壊。生き残った艦は散り散りとなって、白旗を揚げるか、あるいは海の藻屑になる可能性を背負いつつ、ボロボロの艦で本国を目指すか。
激闘を制したフランス旗艦『マサト号』の甲板で、ラトゥーシュ=トレヴィル提督は帽子の庇に手を当て、沈みゆく『ヴィクトリー号』と英雄ネルソンの亡骸へ向けて、静かに深々と敬礼を捧げた。
「……さらばだ、海の英雄よ。貴殿の執念、実に見事であった




