第97話 暗雲
ロンドン、特別会議室。
「……バカな! アランソンへ向かった我が軍の先鋒が、ナポレオン率いるフランス陸軍の迅速すぎる迎撃によってアランソン近郊で完全に足止めされただと!?」
ヘンリー・アディントン首相が悲鳴のような声を上げた。
無断でノルマンディーへ上陸した貴族将校たちの暴走。当初、ロンドンの政界は「アランソンを壊滅させれば一発逆転だ」と密かに静観していた。しかし、待ち受けていたのは綿密な鉄道網で迅速に展開したナポレオンの鉄壁の防衛線だった。
「それだけではありません!」
海軍省の幹部が蒼白な顔で報告を続ける。
「ラトゥーシュ=トレヴィル率いるフランス装甲艦隊が、ドーバー海峡およびノルマンディー沖の海域を完全封鎖いたしました! 上陸した数万の兵は退路を断たれ、袋のネズミとなっております!」
「な……なんだと!?」
閣議室に激震が走った。上陸部隊の指揮官や将校たちは、ロンドンに鎮座する有力公爵や子爵たちの「二男、三男」といった令息たちなのだ。彼らを見殺しにすれば、本国の貴族社会と政権そのものが崩壊する。
「おのれ……! もう後戻りはできん!」
閣僚たちは血走った目で、部屋の隅に静かに立っていた男。イギリス海軍の英雄、ホレイショ・ネルソンを睨みつけた。
「ネルソン提督! 直ちに全艦隊を率いて出撃せよ! 我が国の兵を、貴族の令息たちを救い出すのだ! フランスの封鎖網を突破し、ノルマンディーから彼らを連れ戻せッ!」
「……しかし、閣下」
ネルソンは片目を細め、静かに、しかし悲痛な声で訴えた。
「風に頼る我々の木造帆船で、風を無視して自在に動き、圧倒的な装甲と榴弾砲を備えたフランスの『装甲蒸気艦隊』に正面から挑むのは……自殺行為に等しい。まずは外交交渉で彼らの身柄を」
「黙れッ! 交渉などできるか! マサトに頭を下げろというのか!?」
ヘンリー・アディントン首相が机を激しく叩いて叫んだ。
「貴公はイギリス海軍の提督だろう! どんな手を使ってでも敵の封鎖を破り、彼らを救出するのが貴公の使命だ! 我が政府の絶対命令である!」
「…………」
ネルソンは深く目をつむり、拳を固く握りしめた。
軍人としての矜持、そして本国の政治家たちの無知と傲慢に対する怒りが胸を焼く。だが、命令を拒むことはできなかった。
「……了解いたしました。全艦隊、出撃の準備に入ります」
数日後。ドーバー海峡、深い霧と荒波が荒れ狂う海域。
ネルソン提督率いる八十隻を超えるイギリス大海軍が、白波を立ててフランス沿岸を目指していた。
旗艦『ヴィクトリー号』の甲板で、ネルソンは望遠鏡を握りしめ、前方の暗雲を見つめていた




