第89話 通商路
「地中海からインド洋にかけての通商路、か」
総裁府の執務室で、ラトゥーシュ=トレヴィル提督は地図の上に置かれた航路図を感心したように見つめていた。
「ええ。イギリスと直接戦火を交える必要はありません」
俺は地図上の北アフリカ沿岸、そして赤道付近の海域を指で示した。
「現在、我が国や提携国であるスペインの商船は、北アフリカの海賊や、赤道無風帯での足止めによって多大な損害を受けていると聞く。帆船では風が止まればただの標的ですからね」
「確かに……。特に赤道付近の無風地帯は、我々船乗りにとって墓場も同然です。風を待つ間に水と食料が尽き、腐敗し、無数の船乗りが命を落としてきました」
提督は苦い記憶を思い出すように目を細めた。
「ですが、我が国の『装甲蒸気船』ならどうだ?」
俺は笑みを浮かべた。
「風が吹かなくても、ボイラーに炭をくべれば時速十ノット以上で突き進むことができる。さらに、海賊どもが漕ぎ舟で群がってこようと、鉄の装甲は矢や古い大砲など弾き返し、蒸気外輪がその舟ごと叩き潰します」
「……なるほど! 戦争のためではなく、『世界で最も安全な通商路』を作り上げるために新艦隊を動かすわけですな!」
提督の目が爛々と輝き出した。
「その通りだ。地中海の海賊を討伐して通商路を守り、赤道無風帯を難なく突破してインドやアジア、中南米からの物資を最短ルートでパリへ持ち帰る。これを行えば、イギリスが軍艦で威圧せずとも、世界中の商人たちが『フランスの護衛艦隊についていきたい』と集まってくる」
武力で海を支配するイギリスに対し、フランスは「安全性と圧倒的な物流スピード」という実務で海の覇権を握るのだ。
「気に入りましたぞ、マサト総裁! 我が新式艦隊の初陣として、これ以上ない初陣だ!」
数か月後。地中海、マルタ島沖。
静まり返った海の上に、風を失って立ち往生していた数隻のフランスおよびスペインの大型商船が浮かんでいた。
その周囲を、北アフリカを拠点とする海賊の高速帆船と多数の手漕ぎ船が、獲物を狙うハイエナのように包囲しつつあった。
「ヒッヒッヒ! 風が止まったぞ! 野郎ども、乗り込んで奪い尽くせ!」
海賊たちが勝ちどきをあげ、鉤縄を手にして迫ってきたその時。
『ボオオオオオオオオオッ!!』
水平線の彼方から、腹に響くような重厚な汽笛の音が轟いた。
「な、なんだあの音は!? 雷か!?」
海賊たちが呆気にとられて振り向いた先から現れたのは、帆を全て畳んでいるにもかかわらず、黒い煙をモクモクと吹き上げながら猛スピードで波を蹴立てて迫ってくる、異形の「黒い鉄の城」だった。
フランス海軍が誇る一番艦、装甲蒸気艦『マサト号』。
その艦橋には、腕を組み仁王立ちするラトゥーシュ=トレヴィル提督の姿があった。
「全砲門、降伏に応じぬ海賊船へ照準! 鉄の船の恐ろしさを、その身に刻み込んでやれ!」
風を無視して自在に舵を切り、海賊船の射程外から正確に巨砲を叩き込む蒸気艦の姿に、海賊たちは絶叫した。
「ば、化物だ! 風もないのに動いているぞ!?」
「砲弾が弾かれた!? 船が……船が鉄でできているぞーっ!?」
圧倒的な殲滅戦であった。
かつて全欧州の商船を恐怖に陥れた海賊船団は、一切の反撃も叶わぬまま、わずか一時間で海中に沈められるか、ほうほうの体で逃走していったのだった。
助けられた商船の乗組員たちは、救世主のように現れた「風なき海の覇者」に向かって、割れんばかりの歓声を上げた。
この地中海での一戦と、その後の「赤道無風帯の踏破」の知らせは、すぐさまロンドンのイギリス海軍省へと届くことになる。
「……フランスの蒸気船は、ただの実験作などではない。すでに外洋を制し、海のルールを書き換えつつある……!」
報告書を読み上げたネルソン提督は、苦い顔で窓の外の海を見つめるのだった。




