第87話 海軍
イベリア半島を「鉄道」と「経済」の力によって実質的な影響下に置き、ピレネーを越える物流が爆発的な富をフランスにもたらし始めていた頃。
総裁府の執務室で、俺とラ=ファイエット、そしてナポレオンは、広大な世界地図を前にしていた。
「陸の戦いは完全に終わった。オーストリアもプロイセンも、スペインも我が国の敵ではない」
ラ=ファイエットが満足そうに頷くが、俺は地図の北側……ドーバー海峡の先にある島国を指で突いた。
「ですが、イギリスという喉のつかえが残っています。アミアンで講和を結んだとはいえ、あちらには圧倒的な『海軍力』がある。我が国の海上貿易を本気で締め上げようとすれば、いつでもそれが可能な状態です」
「……胸くその悪いですね」
ナポレオンが腕を組み、忌々しそうに吐き捨てた。
「陸では俺たちに手も足も出ないくせに、海の上に引きこもってデカい顔をしてる。陸の主権を握った以上、海でも奴らにデカい顔をさせられませんね」
ナポレオンの意見に同意しながらマサトが口を開く。
「直接戦火を交えるつもりはありません。ですが……『叩けば痛い目を見る』という強力な抑止力を持たねば、本当の対等な平和は訪れない」
俺の言葉に、ラ=ファイエットが微笑んだ。
「なるほど。だからマサト殿は、あのアランソンの製鉄技術と蒸気機関を『船』に応用しようと考えているのだな?」
「ええ。木造の帆船に風任せで頼る時代は終わらせます。我が国が誇る重工業のすべてを注ぎ込み、鉄で覆われた『装甲蒸気船』を造ります」
そう言って、俺はドアの方を振り返った。
「その『新しい海軍』を造り上げ、指揮してもらうために……今日はお客様をお呼びしています」
ドアが開かれ、部屋に入ってきたのは、日焼けした皮膚と眼光鋭い眼差しを持つ、一人の初老の軍人だった。
「海軍中将、ラトゥーシュ=トレヴィル。お呼びにより参上いたしました、マサト総裁」
ビシッと隙のない敬礼を捧げる男を見て、ナポレオンの目がパッと輝いた。
「ラトゥーシュ=トレヴィルか! イギリス海軍の鼻を明かした数少ない真の海軍提督だな!」
ラトゥーシュ=トレヴィル。
史実ではネルソン提督率いるイギリス艦隊を退け、ナポレオンから「我が国最高の海軍提督」と絶賛されながらも、過労により病に倒れた悲劇の名将だ。だが、この世界ではマサトの推進した医療改革と衛生環境の改善により、彼は持病を克服し、溢れんばかりの情熱を保ったまま健在だった。
「提督。貴方を我が国の『造船改革および新式艦隊総司令官』に任命したい」
俺がそう告げると、ラトゥーシュ=トレヴィルは力強く胸を張った。
「光栄の極みにございます、マサト総裁。……正直に申し上げれば、旧態依然とした我が国の海軍には絶望しておりました。風任せの帆船と、訓練不足の水夫では、ロンドンの『木造の城壁』を打ち破ることは到底不可能です」
「だが、風に頼らない『鉄と蒸気』の船ならどうだ?」
俺がデスクの上に置いた「装甲蒸気外輪船」の初期設計図を見せると、ラトゥーシュ=トレヴィルは目を見開き、食い入るように図面を見つめた。
「な……ッ!? 船体を鉄で覆い、蒸気機関で車輪を回して推進する……!? これなら、風向きなど関係なく自由自在に航行できる! イギリスの誇る重砲の砲弾すら、弾き返すではありませんか!」
「そうだ。そしてこの船の動力源や鉄鋼は、すべて工場から『鉄道』で各港へと迅速に運ばれる。陸の物流と海の軍事力を完全に融合させるんだ」
ラトゥーシュ=トレヴィルは武者震いし、図面を握りしめる手に力を込めた。
「……素晴らしい。これならば、あのネルソンすら子供扱いしてみせましょう! マサト総裁、ナポレオン将軍! この老骨、フランスの海を『最強』にするために捧げて見せます!」
「頼んだぞ、提督!」
ナポレオンが興奮気味に彼の肩を叩く。
陸を制したフランスの「鉄と蒸気」の力は、名将ラトゥーシュ=トレヴィルの手によって、ついに大海原へとその爪を伸ばし始めていた。




