第82話 講和条約
アミアンの会議場には、針が落ちても聞こえるほどの重苦しい沈黙が流れていた。
窓から差し込む陽光が、豪華な木製テーブルの上に置かれた数枚の紙を照らしている。そこには、フランス総裁政府が提示した膨大な講和条約の草案が記されていた。
イギリス特使マカートニー卿は、青ざめた顔でその文書を凝視したまま動かない。彼の額からは一筋の汗が伝い落ち、手にした高級なハンカチを握りしめる手に力がこもっていた。
……陸での圧倒的な敗北。オーストリアも、プロイセンも、スペインもすべて粉砕された。そしてあのアランソンから伸びる『鉄道』。あの機動力がある限り、大陸にこれ以上の陸軍を送り込んだところで、我が国の金と兵がドブに捨てられるだけだ……
マカートニー卿の脳裏で、ロンドンの本国から受けた厳命と、目前に突きつけられた「現実」が激しく交錯する。断れば、北フランスの沿岸部に集結しているナポレオン率いる主力軍が、アランソンが造り上げた輸送船団に乗ってドーバー海峡を渡ってくるかもしれないのだ。それはこれ以上戦争を望まないのなら、最悪の選択肢と言えるだろう。
「……マサト総裁、ラ=ファイエット総裁」
長い、あまりにも長い沈黙を破り、マカートニー卿が重い口を開いた。その声には、苛立ちと観念が混ざり合っていた。
「我がグレートブリテンは……貴国が提示した大部分の条件を受け入れましょう。直ちにフランス沿岸部に対する海上封鎖を全面解除し、フランス総裁政府を、ヨーロッパの正当な権力として正式に承認いたします」
会議場の壁際に控えていたフランス側の書記官たちが、思わず息を呑むのが分かった。
長年フランスを苦しめ、経済を締め上げてきたあのイギリスが、ついに折れたのだ。
「賢明なご決断です、特使殿」
ラ=ファイエットは優雅な所作で身を乗り出し、口元に穏やかな、しかし勝者としての揺るぎない笑みを浮かべた。
「無意味な流血を避け、平和の道を選ばれたことを、我が国も歓迎いたします」
「……ですが! 我が国にも一つだけ、絶対に譲れない条件がございます!」
マカートニー卿はすかさず身を乗り出し、机を拳で叩いた。これ以上、一方的に押し込まれるわけにはいかないという最後の意地だった。
「フランスが提供するという『大陸鉄道網の通商権』……これに関する我が国の輸入貨物への運賃、および関税の特別優遇措置を、この条約書に明確に明記していただきたい! これなしでは、我が国議会も、そして海側の商人たちも絶対に納得いたしません!」
「なるほど」
俺は手にしていたコーヒーカップをそっとソーサーに置き、マカートニー卿の目をまっすぐに見つめた。
「英国の製品を、我が国の鉄道を使ってヨーロッパ全土へ安くスピーディに運ぶ権利……確かに商人の方々にとっては喉から手が出るほど欲しいものでしょうね。構いませんよ、その優遇措置を受け入れましょう」
「おお! では――」
「ただし」
安堵しかけたマカートニー卿の言葉を、俺は静かに遮った。
「その優遇措置は、完全に『相互的』なものでなければなりません。つまり、我が国フランスからイギリスへ輸出される工業製品、繊維、金属加工品、そして農産物に関しても、同等の免税および関税の最恵国待遇を適用していただきます」
「な……っ!? それでは我が国内の産業が、貴国の安価で高品質な製品に脅かされることになる!」
「脅かされるのではなく、競い合うのです」
俺は口元をわずかに緩め、身を乗り出した。
「お互いに市場を開放し、互いのインフラを利用して富を増大させる。断っておきますが特使殿、我が国の鉄道を使わなければ、貴国はフランスの市場から完全に締め出されることになりますよ? ロンドンでくすぶるか、フランスの鉄路に乗って大陸中で商売をするか……どちらが英国の利益になるか、答えは明白のはずです」
「……っ」
マカートニー卿は言葉を詰まらせた。
完璧な論理の構築。軍事的な脅威を背景にしながらも、経済的な「甘い蜜」を提示して相手を断れない状態に追い込むマサトの手腕に、イギリス特使は完全に打ちのめされていた。
「……分かりました。その条件で結構です」
観念したマカートニー卿は、震える手で羽ペンを取り、差し出された紙へ一字一字、踏みしめるように署名を行った。最後に、グレートブリテン王国の赤い蝋印が力強く押される。
こうして、歴史に刻まれる『アミアン講和条約』が締結された。
フランスを包囲していた対仏大同盟は名実ともに完全に崩壊し、海上封鎖も解除。フランスはヨーロッパ大陸における圧倒的な地位を確立し、ついに平和を手に入れたのだった。




