第81話 交渉
対仏大同盟の半数の大国を粉砕し、パリで盛大な軍事デモンストレーションを成功させてから数週間。
銃声と砲声が止んだフランスに、次に訪れたのは「言葉と書類の戦争」だった。
「……イギリスからの特使が、アミアンに到着したそうだ」
総裁公邸の執務室で、ラ=ファイエットが書簡をデスクに置き、溜息混じりに言った。
「ドーバー海峡を挟んで睨み合っていたが、あちらも陸上での同盟国がことごとく崩壊して、いよいよ直接交渉のテーブルにつかざるを得なくなったわけだな」
「ええ。ですが、彼らは海上の支配権を握っています。フランスの港を封鎖する能力を残している以上、強気の姿勢を崩さないでしょうね」
俺は淹れたてのコーヒーを一口含み、地図上のドーバー海峡を指でなぞった。
イギリスは大陸での敗戦にショックを受けつつも、絶対的な海軍力を持っている。だからこそ、簡単にフランスの言いなりになるつもりはない。彼らが求めているのは「フランスのこれ以上の軍事的・経済的拡大の阻止」だ。
「マサト殿、この交渉……君が主導権を握ってくれ。政治的な駆け引きは私が支えるが、経済とインフラを絡めた交渉は君にしかできない」
「分かりました。……ナポレオンには、引き続き北部沿岸部に兵を集めて『イギリス本土上陸の構え』だけは見せてもらっておきましょう」
ラ=ファイエットは不敵に笑い、頷いた。
「ハハ、それはイギリスの外交官にとって素晴らしい胃薬の需要を生み出しそうだな」
数日後、アミアンの交話会議場。
重厚な円卓を挟んで、フランス側代表として俺とラ=ファイエット、イギリス側代表として特使のマカートニー卿が対峙していた。
「フランス総裁政府の皆様。我がグレートブリテン王国は、欧州の平和のために公正な講和を望んでおります」
マカートニー卿は気品ある仕草で礼を言ったが、その瞳は鋭く、こちらの出方を探っていた。
「ですが、条件がございます。我が国がフランスの現体制を承認し、経済封鎖を解除する見返りとして……フランス軍はオランダおよびライン川西岸からの即時撤退、そして『あの怪物』の製造停止を求めます」
「あの怪物、とは?」
俺が問い返すと、マカートニー卿は露骨に眉をひそめた。
「白々しい。貴殿が作り出したと噂され、東部と南部で悪夢のような移動速度を見せた『蒸気機関車』のことです。あれは平和を脅かす過剰な軍事兵器だ。イギリスとしては、国境沿いにおける鉄道網の拡張制限を強く求めざるを得ません」
マカートニー卿の言葉に、隣のラ=ファイエットが静かに口を開いた。
「特使殿。蒸気機関車は兵器ではなく、我が国の経済を発展させるための輸送手段です。それを制限せよとおっしゃるなら、我々も『イギリス海軍の艦船保有数の制限』を求めねばならなくなりますが?」
「……! それは断じて呑めんな!」
ラ=ファイエットの鋭いカウンターに、マカートニー卿の顔色がサッと変わる。
海軍力こそがイギリスの生命線。そこを突かれるのが一番痛いことを、ラ=ファイエットは見抜いていた。
場の空気がピリついたところで、俺はゆっくりと書面をテーブルの中央へ滑り込ませた。
「マカートニー卿。私たちは、イギリスと毛むくじゃらの泥沼劇を演じ続けるつもりはありません。お互いに『今すぐ相手を完全に滅ぼすことはできない』と分かっているはずです」
「……何が言いたいのですか、マサト総裁」
「提案です。フランスは大陸での鉄道網をさらに広げますが、これは軍事利用だけではありません。イギリスの製品や原料を、我が国の鉄道を使ってヨーロッパ全土へスピーディに運ぶ『通商権』を与えましょう」
「なに……?」
「もちろん、相応の関税と利用料はいただきます。ですが、我が国の鉄道を使えば、これまで数ヶ月かかっていた大陸内部への物流が数日に短縮される。貴国の商人にとっても、計り知れない利益になるはずです」
マカートニー卿が絶句した。
軍事的脅威だと思っていた「鉄道」を、一転して「イギリスにとっても魅力的な経済的カード」として提示されたからだ。
「……条件は?」
「イギリスによるフランス沿岸の封鎖完全解除。そして、我が国の現政権の正式承認と、制海権を脅かさない範囲での貿易協定の締結です。これを受け入れない場合……」
俺は窓の外、遥か北の空を見やった。
「フランスの精鋭軍と、鉄道で運ばれた大量の輸送船が、いつでも海を渡る準備を始めることになるでしょう」
静まり返る会議室。
ラ=ファイエットが穏やかな笑顔で締めくくった。
「戦場で血を流すか、テーブルの上で共に富を分かち合うか。……お好きな方をお選びください、特使殿」
イギリス特使の額に、一筋の汗が伝い落ちた。
大砲の音は聞こえない。だが、確かにいま、外交という名の壮絶な戦いが繰り広げられていた。




