第76話 数の暴力
東部国境、ライン川を望む平原は、吐き気をもよおすほどの硝煙と泥に覆われていた。
「全砲員! 照準修正、仰角三! 連続して叩き込め!」
ナポレオンの疾風のような怒号が飛ぶ。
アランソンから次々と運び込まれた最新鋭の大砲が火を噴き、黒煙の尾を引いて炸裂弾が爆ぜる。
その猛威はまさに天災だった。オーストリア・プロイセン連合軍の第一陣は、戦う前に肉片へと変えられていく。
だが、相手はヨーロッパの歴史を創ってきた屈指の軍事大国だ。
「臆するな! 屍を越えて前進せよ! 皇帝陛下に忠誠を!」
プロイセンの老将が血反吐を吐きながら軍刀を振り下ろす。
数千、数万の敵兵が、味方の死体を踏み越えて押し寄せてくる。ミニエー弾の猛射によって先頭がなぎ倒されても、彼らは決して潰走しなかった。
圧倒的な「数の暴力」
プロイセン軍が得意とする厳密な軍隊秩序によって、死んだ兵士の穴が即座に後ろの兵で埋められ、泥で汚れた赤い壁となってじりじりと距離を詰めてくるのだ。
「チッ……噂通りの狂信的な規律高さだな」
ナポレオンは望遠鏡を覗き込みながら、苦々しく吐き捨てた。
マサトがもたらした新式ライフルとミニエー弾の火力、そして無限に等しい弾薬補給は間違いなく圧倒的だ。普通のアラマサ自警団や地方軍が相手なら、すでに敵はパニックを起こして逃げ出している。
だが、十万を超える敵の「巨大な質量」そのものが、火力の波を飲み込んで殺気立つ壁と化していた。
「将軍! 敵のオーストリア重騎兵隊、煙に紛れて右翼の第3大隊に肉薄! 陣形が崩されかけています!」
「砲兵隊、右翼へ照準を変更! 散弾を装填せよ! 接近される前に叩き潰せ!」
激しい怒号と悲鳴、銃砲撃の地鳴りが交錯する。
前線では、最新式の兵器を持つフランス兵と、剣と槍を突き出す連合軍兵士による凄惨な泥泥の死闘が続いていた。両軍ともに数万の遺体を戦場に晒しながら、一歩も引かない膠着状態。
このまま削り合いを続けても勝てる。だが……それでは時間がかかりすぎる。南で耐えているマサト総裁が持たん!
ナポレオンの脳裏で、焦燥と冷徹な思考が激しく交錯する。
敵は厳密な陣形を保ち、補給路を守るために中央を極限まで厚くしている。正面突破を狙えば、この泥沼に拍車がかかるだけだ。
その時、背後の仮設駅から、ゆっくりと列車が入ってくる。
戦場の凄惨な響きを切り裂いて届いたのは、パリから新たな砲弾と糧食を積み込んで到着した軍用列車だった。煙を上げ、正確に、そして途切れることなく物資を吐き出し続ける「鉄の怪獣」。
それを見た瞬間、ナポレオンの頭の中で、電撃のような閃きが走った。
「……そうか。奴らは『従来の補給線』に縛られている」
ナポレオンの目が、獰猛な肉食獣のようにカッと見開かれた。
「敵は全物資を後方の街道一本に依存している。我々が無限の弾薬と鉄道という『移動速度』を持っていることを、奴らはまだ本当の意味で理解していない!」
ナポレオンは素早く羊皮紙の地図を広げ、指を走らせた。
「敵の右翼……あの底なしの泥沼に見える湿地帯だ。従来の軍隊なら行軍不可能なあの場所へ、我が軍の機動砲兵と新式ライフル部隊を『鉄道と仮設線路』を使って夜間一斉に迂回させる」
「な……!? 湿地帯を大砲を引きずって移動するなど不可能です!」
参謀が叫ぶが、ナポレオンは不敵に口元を吊り上げた。
「工兵隊が運んできた鉄板と簡易レールを使えば可能だ! 敵は我々が正面から削り合いを続けると信じ込んでいる。……明日、敵が中央の押し込みに全力を注いだ瞬間、その無防備な側腹部へ、この無制限の火力を叩き込む!」
絶望的な泥沼の戦局の中に、はっきりと見えた勝利への「一本の筋」。
「……持ちこたえてくれ、マサト総裁」
ナポレオンは冷徹な決意を込め、懐中時計を叩きつけるように閉じた。
「明日だ。明日の陣形再編と同時に……この十万の豚どもを、影も形もなくすり潰して見せる!」




