第68話 休暇
地中海での命懸けの遅延作戦を終え、ネルソン艦隊の追撃を完全に振り切ってから数週間が経った。
激闘の傷痕痕が残る艦隊の手配、兵士たちの補給、そして目まぐるしく変わる政情への対応。俺はいつも通り執務室の机に積み上がった書類の山と格闘し、ただ黙々と総裁としての職務をこなしていた。
カサリ、とペンを走らせる音だけが響く部屋の扉が、不意にノックもまばらに開く。顔を上げると、そこに立っていたのはラ=ファイエット総裁と、あのナポレオンだった。
……この二人が揃って直接乗り込んでくるなんて、また何か厄介ごとでも起きたか?
ネルソンの再来か、あるいは国内の反乱か。最悪のシチュエーションを想定して背筋を正した俺に、ラ=ファイエットは真剣そのものの面持ちで、あまりにも突拍子もない質問を投げかけてきた。
「マサト殿……前々からずっと気になっていたのだがね。君は一体、いつ休暇を取っているのかな?」
「……はい? 休暇、ですか? 特に取ってはいませんが」
拍子抜けして素で返してしまった。
一応言っておくが、俺は転生前、現代日本で学校の教師をやっていた男だ。最近は教師らしさなど微塵も見せず、船団を率いて海戦を指揮したり、総裁として国家の舵を取ったりしているせいで、自分でも元教師だった過去を忘れかけていたくらいだ。
だが、日本の学校教師のブラック度を舐めてもらっては困る。かつての職場では、せっかくの休日なのに当たり前のように出勤し、サービス残業ならぬ『サービス授業』をこなす先輩教師がいた。もちろん給料など出ない。「今日はボランティアだからね!」とあり得ないほど爽やかな笑顔で語る先輩の瞳には、深淵のような闇が宿っていたものだ。
あの過酷な環境に比べれば、書類仕事など朝飯前。その感覚の麻痺のおかげか、こちらに来てから休もうという発想すらなかったのだ。
すると、あの軍事の天才であり、常に強気なナポレオンが、どこか引いたような……誇張抜きで『畏怖』の籠もった眼差しで俺を見つめ、意を決したように口を開いた。
「マサト総裁……仕事熱心なのは非常に素晴らしいことです。ですがね、戦場の真っ只中や重要な政務の最中に、あなたが過労で倒れでもしたら我が国は一たまりもありませんよ!」
まさに必死の訴えといった様子のナポレオン。隣に立つラ=ファイエットも大きく頷き、まるで壊れたおもちゃのようにぶんぶんと首を縦に振っている。歴史に名を残す英雄ふたりを、まさか自分の労働環境問題でここまで必死にさせるとは思いもしなかった。
「というわけでマサト殿、これは総裁政府からの命令だ。今すぐ仕事を置いて、どこかへ休暇に行ってくれたまえ!」
「えぇ……命令って……」
「言い出したら聞きませんよ、マサト総裁。……そうだ、貴方の原点である『アランソン』へ帰って羽を伸ばしてきてはどうです? あちらの仲間たちも心配しているでしょう」
ナポレオンに背中を押され、半ば強制的に執務室から追い出されてしまった。
こうして俺は、久々にすべての仕事を放り出し、懐かしいアランソンへと向かうことになったのだった。




