第67話 悪魔
── 西地中海──
風を孕んで巨大な帆を広げるイギリス地中海艦隊の旗艦『ヴァンガード』の艦橋で、ネルソン提督は双眼鏡を覗き込んだまま、苦々しく歯噛みしていた。
「……追いつかん。なぜだ!?」
前方数マイル先を悠々と航行するのは、フランス総裁政府の象徴旗を掲げたマサトの「豪華ダミー船団」だ。
風上を押さえているのはイギリス艦隊であり、本来ならば急速に距離を詰められるはずだった。
しかし、マサトの旗艦の船尾からは、怪しげな黒煙が薄く立ち上っている。
風が弱まると、その船はまるで生き物のように スルスルと速度を上げ、イギリス艦隊の射程圏外へと軽々と逃れていくのだ。
「報告! 敵船団、風に頼らず一定の速度を維持しています! 我が軍の快速フリゲート艦でも距離が縮まりません!」
「……チッ! あの総裁、船に何を仕込みやがった!?」
ネルソンは思わず手すりを叩いた。マサトが実用化を進めていた「初期型蒸気機関」による外輪補助推進、アランソンの技術だ。
そして、この異常な逃走劇が何日も続いたことで、ネルソンの脳裏に最悪の確信が芽生え始めていた。
……やられた。マサトの目的は、私と交戦することでも、大西洋へ脱出することでもない。……『時間』だ! 私をここに釘付けにすることが奴の狙いだったのだ!
ネルソンの顔色が失われる。
「反転だ! 全艦、舵を東へ切れ! エジプトだ……奴らの本当の狙いは東地中海だぞッ!!」
ネルソンの激怒の号令が飛んだ、その時。
『ドドズドォォォン……ッ!!』
突如、海面を切り裂く重厚な砲撃音が響き渡り、イギリス艦隊の先頭を進んでいたフリゲート艦のわずか数メートル手前に巨大な水柱が上がった。
「な……!? 敵艦からの砲撃です! だが、あの距離からだと……!?」
ネルソンは目を見張った。通常の大砲では到底届かない超長距離。
引き返そうとしたネルソン艦隊の「鼻先」をかすめるように放たれたのは、アランソン製の長距離12ポンド砲による牽制射撃だった。
遠く離れたフランス旗艦の甲板で、マサトは望遠鏡を片手にニヤリと不敵に笑っていた。
「おっと、ネルソン提督。気づくのが遅かったな。……だが、今さら東へ戻らせるわけにはいかないんだよ」
「マサト総裁! 敵艦隊、全角を東へ回頭しようとしています!」
「分かっている。全艦、アウトレンジから東への航路を塞ぐように全門斉射。追いつかせる必要も、撃沈する必要もない。奴らに『反転すれば横腹を晒して無傷では済まない』と思わせろ!」
「はっ!」
マサトの狙いは徹底していた。
「勝つための海戦」ではなく「足止めするための海戦」。
風上に位置するイギリス艦隊に対し、マサト艦隊はアウトレンジからの射撃と蒸気推進による圧倒的な機動性で、つかず離れずの絶妙な距離を維持し続けた。
ネルソンが東へ向けようとすれば、射程外から正確な長距離砲撃を叩き込んで旋回を妨害し、ネルソンが一度南に向かって俺らの船団を迂回しようとすれば、黒煙を上げてすっと速度を上げて逃げ水のように距離を詰める。
「くそう……ッ! 悪魔のような男だ!」
ネルソンは悔しさに唇から血を滲ませた。
戦えば勝てる自信はある。しかし、相手は絶対に交戦エリアに入ってこず、さりとて放置して東へ戻ろうとすれば後方を脅かしてくるのだ。
丸一日。
名将ネルソンは、マサトが仕掛けた「遅延という名の生殺し」によって、ジブラルタルの海に完全に縛り付けられた。
西の空が朱く染まる頃、マサトは時計を確認し、満足そうに望遠鏡を手に取った。
彼が見つめていたのは、航路の遥か先にある名もなき小さな孤島だった。
望遠鏡のレンズ越しに、その小島の頂に一本の旗が風にたなびいているのが見える。
青、白、赤の三色旗、フランス国旗だ。
「……よし。やはりナポレオンは天才だな」
事前の打ち合わせ通りだった。
ナポレオンがエジプトの完全制圧を完了させた後、早馬と高速船を乗り継いだ伝令が、地中海に点在する中継地点の小島に『作戦完了』を示す旗を掲揚する手はずになっていたのだ。
これで、もうあのネルソンを命がけで惹きつけておく必要はない。
ふう……。総裁という立場上、顔には出さなかったが……一歩間違えてネルソンに捕捉され、俺ごと船を撃沈されていたらと思うと、内心ヒヤヒヤだったからな。
マサトは誰にも気づかれないよう小さく息を吐き出すと、すぐさま威厳ある総裁の顔へと戻り、力強く片腕を振り下ろした。
「全艦、反転して引き上げるぞ!……作戦は完了した!」
夕日に照らされる甲板の上で、マサトの号令が誇らしく響き渡った。




