第64話 宿敵
オーストリアを屈服させ、欧州大陸に束の間の平和をもたらしたイタリア遠征の快挙。
パリへと凱旋したナポレオン・ボナパルト将軍は、民衆の熱狂的な大歓声を浴びた後、総裁政府の執務室へと足を運んでいた。
「よくやったな、ナポレオン。おかげでフランスの食料難もインフレも収まりそうだよ」
マサトが笑顔でワイングラスを差し出すと、ナポレオンは恭しくそれを受け取り、一気に飲み干した。
「マサト総裁の携帯食料とアランソンからの支援がなければ、あの速度での勝利はありませんでした。……ですが、勝利の余韻に浸っている暇はありません」
ナポレオンの瞳から笑みが消え、鋭い将軍の眼光へと変わる。
彼はデスクの上に置かれた世界地図、特に「地中海」と「中東」が描かれた領域を指差した。
「オーストリアが倒れた今、我々の残る宿敵はただ一つ。海を隔てた島国、イギリスです。……私は、エジプトへの遠征を提案いたします」
「……エジプトだと?」
ワイングラスを傾けていたマサトの動きが、ピタリと止まった。
「はい。エジプトは、イギリスと最大の植民地である『インド』を結ぶ貿易・交通の超要衝。ここを押さえれば、イギリスの経済的息の根を締め上げることができます。さらに、東洋への進出拠点としても完璧です」
熱弁をふるうナポレオンに対し、マサトは眉をひそめ、深いため息を漏らした。
「……ナポレオン、お前の戦略的な視点は見事だ。だが……今回の遠征には、俺は『反対』だ」
「な……反対、ですか!?」
絶対的な理解者であるマサトからの予期せぬ難色に、ナポレオンは息を呑んだ。
ラ=ファイエットも意外そうにマサトの顔を見る。
「マサト殿、何か大きな懸念でも?」
「大ありですよ」
マサトは地図のエジプトを鋭い目で見つめた。
「第一に『海』だ。イタリア遠征は陸続きだったからアランソンの支援や補給網を繋げられた。だがエジプトは地中海を渡る長距離航行になる。イギリス海軍には『ネルソン』という恐ろしく鼻の利く提督がいるんだ。もし海上で補給船団が捕まれば、エジプトに渡った数万の兵は逃げ場を失って完全に孤立する」
「……っ」
「第二に『気候と環境』だ。灼熱の砂漠、水不足、疫病……。いくらアランソンの携帯食料があっても、水がなければ兵士は干からびる。現地の環境を甘く見れば、いくら精鋭でも自滅するぞ」
マサトの指摘は、まさに史実でナポレオンが直面することになる地獄そのものだった。
冷酷なまでにリスクを洗い出すマサトの言葉に、ナポレオンも反論できず、悔しそうに拳を握りしめた。
「……では、イギリスの横暴をこのまま指を咥えて見ていると!?」
「誰も『行くな』とは言っていない」
マサトはニヤリと不敵に口元を吊り上げた。
「今の無防備な状態で行くのは愚かだと言っているんだ。リスクが分かっているなら、それを完璧に潰す『対策』を考えればいい」
「……対策、ですか?」
「ああ。海上の補給線をどう守り抜くか。砂漠でどうやって『水』と『健康』を確保するか。……ナポレオン、お前のその天才的な頭脳と、アランソンの技術力を総動員して、絶対に負けない『エジプト攻略作戦』を練り上げるぞ」
マサトの言葉に、ナポレオンの瞳に再び激しい野心が燃え上がった。
「……ッ! はい、マサト総裁! どのような難問であろうと、完璧な対策を用意してみせます!」
ただ無謀に突き進むのではなく、リスクを徹底的に排除して勝利を確実なものにする。
マサトとナポレオンという二人の天才による、「絶対勝利のためのエジプト遠征準備」が始まったのだった。




