第61話 アルプス越え
標高二千メートルを超える険峰、グラン・サン・ベルナール峠。
吹雪と凍てつく冷気が吹き荒れるその白銀の世界を、一列の軍勢が猛烈な勢いで突き進んでいた。
「遅れるな! 足元に気をつけろ!」
列の先頭で馬の手綱を握るのは、イタリア方面軍司令官に就任したナポレオン将軍だ。
史実のアルプス越えといえば、悲惨の一言に尽きた。
満足な衣服もなく、腹を空かせた兵士たちが次々と脱走あるいは凍死し、行軍速度は見る影もなく落ち込むのが常だった。
だが、今のフランス軍は違っていた。
「おい、この配給された携帯食、マジで腹に溜まるな……!」
「ああ、固形油脂と乾燥肉、それらを練り固めたやつだろ? 噛んでるだけで体が内側から熱くなってくるぜ!」
兵士たちが口に含んでいるのは、マサトたちが配給した携帯食料だ。
重い調理器具や煮炊きの薪を持ち運ぶ必要がなく、歩きながらにして即座にエネルギーを補給できる。
さらに、全員に支給されたアランソン製の「防水軍靴」と「防寒コート」が、極寒の猛威をことごとく締め出していた。
「脱落者、ゼロ! 予定を大幅に上回るペースで峠を破れます!」
副官の報告に、ナポレオンはニヤリと不敵に笑った。
……素晴らしい。信じられんほど兵士の士気が高い! マサト総裁、貴方の用意してくれたこの手土産……あまりにも強力すぎる!
行軍速度と補給の両立。
軍事史の常識を覆したフランス軍は、まるで平地を歩くかのような速度でアルプス山脈を通過してみせたのだった。
アルプス山脈の南側、北イタリアのサヴォイア地方。
オーストリア・サルデーニャ連合軍の前線基地では、油断しきった将校たちが温かいスープを啜っていた。
「ふはは、フランスの貧民軍どもめ。どうせ今頃はアルプスの雪山で凍えて動けまい」
「ああ、山を下りてくる頃には餓死寸前の亡霊になっているはずだ。春まで放置しておけば自滅するさ」
高笑いする将校たち。
だが次の瞬間、地響きのような重低音が前線基地全体を揺らした。
『ズドォォォォン……ッ!!』
「な、なんだ!? 雷か!?」
「報告! ほ、報告いたしますッ!!」
血相を変えた見張り兵が、幕舎になだれ込んできた。
「山だ! アルプスから……フランス軍の「大軍」が降りてきました!!」
「な……バカな!? この真冬に、あの険しいアルプスを越えられるはずがないだろ!?」
「それが、全員が無傷で、しかも恐ろしい速さで迫ってきます! 既に我が軍の前衛部隊は包囲され、壊滅状態です!!」
「な、なんだとぉぉぉっ!?」
将校たちが慌てて幕舎を飛び出した時には、すでに勝負はついていた。
山を駆け下りてきたのは、飢えた亡霊などではない。
温かいコートに身を包み、鋭い眼光を輝かせた満腹の軍隊だった。
「全軍、突撃ぃぃぃっ!!」
ナポレオンの軍刀が一閃する。
最新のアランソン製小銃から繰り出される一斉射撃と、鬼神のごとき連続着剣突撃。
完全に不意を突かれたオーストリア・サルデーニャ連合軍は、陣形を整える間すら与えられず、蜘蛛の子を散らすように敗走していった。
「……両総裁へ至急の電報を打て」
煙の立ち込める敵陣の真ん中で、ナポレオンは腕を組みながら言った。
『ナポレオンより総裁政府へ。我が軍はアルプスを踏破。電撃戦によりサヴォイアの敵連合軍を瞬殺せり。これより北イタリアの心臓部へ攻め込む』
遠くパリで朗報を待つマサトとラ=ファイエットへ向けて、ナポレオンは満足げに笑った。
「さあ、オーストリア軍。お前たちの膨大な物資と豊かなイタリアの地、すべてフランスがいただくぞ!」
この、イタリア電撃戦が、全ヨーロッパを激震させる圧勝劇とともに開幕したのだった。




