第60話 イタリア
トゥーロンでの輝かしい大勝利から数週間。
パリの総裁政府執務室では、マサトとラ=ファイエット、そして新進気鋭のナポレオン将軍の三人が、巨大なヨーロッパ全図を囲んでいた。
「……オーストリアの手回しか」
地図を見つめながら、ラ=ファイエットが苦々しく呟いた。
「我が総裁政府が発足したばかりというこの機を奴らは見逃さなかったな。オーストリアを中心に『対仏大同盟』の包囲網が日増しに強まっている。特に北イタリアに展開するオーストリア軍が、我が国の南東国境を脅かす構図になりつつある」
「ええ。国内の混乱が収まった以上、奴らは外からこの新しいフランスを潰しに来るでしょう」
マサトは包帯の巻かれた左目の上を軽く撫でながら、地図のイタリア半島を指差した。
「ですが、これはチャンスでもありますよ。敵の主力がライン川方面に気を取られている今、手薄なイタリア側から突き崩せば、オーストリアの背後を完全に脅かすことができる」
「ふむ……イタリア戦線か」
ラ=ファイエットが腕を組む。
「だが、イタリア方面軍は長らく補給を後回しにされ、兵の士気もどん底だと聞くぞ。靴すら満足に履いていない兵士も多いとか……」
その時、これまで静かに地図を見つめていたナポレオンが、一歩前に進み出た。
「両総裁、私にその『イタリア方面軍』の指揮をお任せいただけないでしょうか」
ナポレオンの瞳には、燃えるような野心と冷徹な計算が宿っていた。
「イタリア方面軍がボロボロなのは事実です。ですが、アルプス山脈を越えて北イタリアの平原へ打って出れば、そこには豊かな穀倉地帯と、オーストリア軍の膨大な物資が眠っています。補給がなければ現地で奪い、敵の兵糧をもって敵を打つ。……私なら、あの飢えた軍隊を最強の電撃部隊に変えてみせます」
「面白いな」
マサトの口元が吊り上がった。
「ナポレオン、お前の中ではもう作戦が組み上がっているんだな?」
「はっ! 敵はオーストリア軍とサルデーニャ王国の連合軍ですが、奴らは互いに不信感を抱き、陣形が分断されています。私の足に追いつける軍はヨーロッパにはいません。各個撃破でサルデーニャを素早く脱落させ、そのままオーストリア軍をイタリアから叩き出します!」
淀みなく語られる電撃戦のシナリオ。
ラ=ファイエットは感嘆の息を漏らし、マサトは満足そうに頷いた。
そして、マサトとラ=ファイエットの意思は固まっている。
「良いだろう。ナポレオン、お前を『イタリア方面軍司令官』に任命する」
「感謝いたします、両総裁!」
「ただし」
マサトはポンとナポレオンの肩に手を置いた。
「机上の理論なら『現地で奪って現地調達しろ』で終わるだろうが、俺たちのやり方は違う。アランソンの物流網を使って、行軍速度を落とさない範囲で、具体的には兵士1人1人が持ち歩ける携帯食料を支給する」
ナポレオンの目が驚きで見開かれた。軍事の常識として、行軍速度を上げることと大量の物資を追及させることは両立しない。だからこそマサトは、速度と補給の両方のいいとこ取りである「個人携行の物資」を提案したのだ。
「ナポレオン、お前の戦術は速度が命だ。だが装備も食料もないボロボロの軍隊では、アルプスを越える頃には凍死者や脱走兵が相次ぎ、残った兵も疲弊しきってしまう......だが携帯食料があれば話は別だ。短期間なら高い士気のままアルプスを電撃踏破できる。敵のオーストリア軍の腰が抜ける顔が目に浮かぶよ」
「……っ! 恐れ入りました、マサト総裁!」
ナポレオンは背筋にゾクゾクとするような興奮を覚え、力強く頭を下げた。これだけのバックアップがあるならば、己の描いた戦術は「百パーセント」の精度で実現できる。
「最高状態の兵士たちを率い、アルプスを越えてみせます。北イタリアを平定し、フランスに絶大な富と勝利を持ち帰りましょう!」
「頼んだぞ、ナポレオン。……ヨーロッパに、俺たちの時代が来たことを教えてやれ」
こうして、後に歴史に語り継がれる「ナポレオンのイタリア遠征」が、アランソンの圧倒的な補給能力という最強のバックアップを得て、静かに動き出したのだった。




